学 会 葬
【学会葬は堕地獄の因】
学会を脱会した人からの情報や、世間で漏れ聞く話から、人に見せられないのか、家族葬でおくられる大幹部や、大変な死相でなくなった学会員の話を聞く。その原因の一つ、学会の葬儀について、法義から検証してみる。
【葬儀の意義】
大聖人は葬儀の意義を、「法華を悟れる智者が死者の魂を成仏へと赴かせる事」とお示しである。
『法華を悟れる智者、死骨を供養せば生身即法身なり。是を即身といふ。さりぬる魂を取り返して死骨に入れて、彼の魂を変じて仏意と成す。成仏是なり。即身の二字は色法、成仏の二字は心法、死人の色心を変じて無始の妙境妙智と成す。是則ち即身成仏なり』
(木絵二像開眼の事)
この御文から拝すと、学会導師は「法華を悟れる智者」の位置にいる必要がある。しかし、学会導師をふくめ、誰もそうは考えない。
また、「正しい葬儀がなければ子孫まで亡(ほろ)んでいく」とも説かれている。
『人死すれば魂去り、其の身に鬼神入れ替はりて子孫を亡ず』
(木絵二像開眼の事)
【葬儀の導師の心構え】
学会葬の導師は、「亡くなった方を真心でおくっている」と言うが、念仏や禅宗の僧も「真心」で葬儀を行っていることは間違いないだろう。「真心」で成仏できるとは、大聖人は示されていない。
学会導師は、九世日有上人の「化儀抄」を読んだことがあるのだろうか。日有上人は、「真心だ」とは説かれていない。
「仏事追善の引導の時の回向のこと、私の心中あるべからず」とある。「『妙法経力即身成仏』の功用にまかせて即身成仏がある」と説かれている。学会員は、このことを理解できていないので、必要以上に「真心」を強調するのだろう。
【戒名の意義について】
学会は、「戒名は必要ない」と言っているが、それは、戒名の意義を知らないからだ。
大聖人は、ご自身のご両親にも、妙日・妙連と戒名をつけられている。
「化儀抄」には、「当亡者の戒名を以って無始の罪障を滅して成仏得道疑ひなし」と、葬儀における戒名の意義が示されている。
日有上人は俗名の位牌は「理の位牌」となるとされ、葬儀の時は題目の下に戒名を認められた位牌を「事の位牌」とされている。そのとき、葬儀による即身成仏の果報が現れることになる。
【葬儀・引導の資格】
学会の導師に、葬儀を行う資格がないことは、御書等で明白である。
御書には、「よき師とよき檀那とよき法と、此の三つ寄り合ひて祈りを成就し、国土の大難をも払ふべき者なり。」(法華初心成仏抄)と示されている。
また「化儀抄」には、末寺のご住職に「法華を悟れる智者」の資格について、次のように明確に示されている。
「手続の師匠の所は、三世の諸仏高祖已来、代々上人のもぬけられたる故に、師匠の所を能く能く取り定めて信を取るべし」
また、大聖人も、次のように、「日文字を冠した御尊師こそ、大聖人一期の功徳がある」とされている。
『日蓮が現在の弟子並びに未来の弟子等の中にも、日文字を名乗りの上の字に置かずんば、自然の法罰を蒙ると知るべし。予が一期の功徳は日文字に留め置く』
(産湯相承事)
つまり、死者への引導をなすためには、「下種三宝の血脈法水に対する師弟相対の信心が必要」とされている。
【大聖人時代の葬儀の例】
学会では、大聖人が葬儀を行っていないように言っている。
大聖人が、小松原で大聖人のために命を落とした工藤吉隆・鏡忍坊のために葬儀をされていないと、思っているようだ。
しかし、建治二年三月に、富木常忍は母親の遺骨と共に大聖人の元へ行かれ、追善供養を頼まれている。
また、大聖人は、葬儀に対して弟子を遣わされている。
「そのほどまづ弟子をつかわして御はかに自我偈をよませまいらせしなり」(減劫御書)
日興上人も
「なによりは市王殿の御うは(乳母)他界御事申はかり候はす、明日こそ人をもまいらせて御とふらひ申候はめ」
と弟子を派遣され葬儀をされている。
【本宗の葬儀と学会葬】
すなわち、葬儀・引導には、僧侶が僧宝の一分としての立場から、戒名を与え、余念を絶し、私心なく大聖人以来の血脈法水への手続の引導を務めることによって、故人が下種三宝の当体たる本門の本尊の功徳力用に浴し、ここに本因妙の即身成仏があると信を取るべきだ。
学会葬には血脈法水が流れないばかりでなく、日蓮正宗の師弟相対の血脈次第の筋目を無視した罪によって、故人や遺族はもとより、導師を務める者も、必ず謗法堕地獄となることは明白である。