『十如是』
「如是相」「如是性」「如是体」「如是力」「如是作」「如是因」「如是縁」「如是果」「如是報」「如是本末究竟等」
これは妙法蓮華経(法華経)の文である。これを簡単に説明すると
【相性体】
相は万物の姿・身体、性はその性分・心、体はその本体・生命を示す。
【力作因縁果報】
それが、力となって作用を起こし、作用が内面に因となって、内面・外面からの縁によって、結果となり、具体的な状況と報ずる。
【本末究竟等】(本末、究竟して等しい)
これらを別々にとらえるのではなく、差別なく究竟しているとする。
この十如是は十界互倶と共に一念三千の要素となる。
これから大日経には一念三千の法門がないことが分かる。
大日如来は法身如来だそうだ。身体がないことになる。つまり、本末が究竟して等しくない。言い直せば、差別(しゃべつ)があると言うことになる。
さらに言えば、身体がない仏がどのように因果を示すのか。大日如来は宇宙の法そのものなどと壮大だ。しかし、自分では宇宙の法を示すことができない不完全な仏となる。身体(仮諦・応身)・心(空諦・報身)・命(中諦・法身)の全てがそろってこそ、完全な仏である。
真言宗の考え方は、バラモンの梵我一如との区別が私にはできない。
そういえば、創価学会の池田先生も同じようなことを言っていた。「日蓮大聖人は宇宙の根源の法を一幅の曼荼羅に顕された」と、つまり「法身仏を曼荼羅として顕した」ことになる。真言宗と同じ考えだ。池田先生は一念三千の法門が分かっていないようだ。
仏法を深く理解できない人物は、どうしても、「宇宙の法」に引きずられる。インド・中国・日本もこの考え方が現れてくると正当仏教が滅んでいく。