kitani1のブログ

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文底秘沈は、開目抄の「一念三千の法門は寿量品の文の底に(秘して)沈めたまへり」から起こる言葉である。

その文底秘沈には何も証拠もなく、日蓮大聖人が自分勝手に言っているに過ぎない、との主張である。

 

開目抄は佐渡御流罪中に著されたものである。法華経には、末法の法華経の行者が受ける法難を予言(予証)されている。二度目の流罪で、その全てを受けられた後の書である。つまり、日蓮大聖人こそ末法の法華経の行者である事の証明され、末法の法華経の行者として示された書である。言い直せば、法華経の身読され、それを証しとし、文底秘沈を明かされたのだ。

 

法華経に釈尊の成道を「我れ本、菩薩の道を行じて成ぜし所の寿命、今猶未だ尽きず。復上の数に倍せり。」と示されている。

ここに成道の境妙・慧妙・行妙・位妙があるそうだ。天台大師は、慧行位は文に示されているが境妙に当たる文がないとする。しかし、慧妙の処には必ず境妙がある、とされる。しかし、境妙の実体は示されていない。

 

末法の法華経の行者であられる日蓮大聖人は、その境妙を一念三千の大御本尊として示された。

 

文底秘沈の大御本尊を明らかにしてこそ、法華経が正しく読めたとできる。パズルの最後のピースがはまる事と同じである。

 

法華経の予言と仏法の全体像からは充分証拠があるといえる。