「岐阜を元気にしたいんです」
そう熱く話す都会の学生に何人か会ったことがある。
元気いっぱいの学生を見ながら、僕はどうしても腑に落ちない。
「岐阜」とくくられることに抵抗があるのだ。岐阜だって飛騨もあれば美濃もある。
「岐阜」とくくる彼らが、当事者としてまちの現状を見ているのか疑問なのだ。
まちづくりとか地域活性化という言葉に酔っているだけかと疑ってしまう。
当然、それは自分にも帰ってくる。「関のまちづくりをしたいんです」と話しても、合併した地域の人から見れば、「わっちらは洞戸村やもん」と思っているに違いない。
当事者意識が、地域の共感を生むのだと思う。
単純に、その地域に住んでいない人が、「この地域の防犯のため見回りをしましょう」と言っても、説得力はない。住む人も感じている課題、目の前で困っているあの人、活動者本人の体験から感じる課題。具体的なつながりを感じられるものこそ、納得してもらえるのだ。
だからこそ、まちづくりはもっともっと狭い範囲でやるべきではないか。
洞戸のことは洞戸で考え、安桜地区のことは安桜地区で考える。そして、「地域で今何が課題か」を漠然と考えるよりも「自分が感じている課題」を掘り下げていくべきなのだろう。
それらがたくさん、溢れ出て、関が、岐阜が元気になる。
廃線となった美濃町線の再生を呼びかけた「関に電車を望む会」の活動。我々と近い世代には、「交通弱者が困っているじゃないか」という言葉より、会長が常々言う「岐阜で飲んで電車で帰りたいやろ?」の方が、共感された。
それだと、最終バスが遅くなれば良い。という結論になってしまったこともあるが・・・。