越中・東岩瀬の次郎吉らの漂流と、異国生活は鎖国下の日本に大きな影響を及ばしたことは間違いない
地元・富山の人間としては、誇らしい気持ちもある
しかし、しかしだ
身びいきが過ぎる表現も目につく
ましてや、事実と違うことが次々と孫引きされている
特にネット時代になると、自分で確かめないでそのまま引用するから、最初の表現者は従来以上に注意をしなくてはならないだろう
ひいきの引き倒しでは、かえって彼らの実像をぼかしてしまう
ということで、いくつか目に付いた誤りを、指摘しておきたい
『漂民次郎吉』を執筆する際に、いろいろな文献を漁ったが、最初に誤りに気付いたのは、難破して太平洋を漂っていた長者丸を救助した船の名前である
漂民たちは帰国後、船名を「ゼンロッパ」(公儀の学者が聴取して編纂した蕃談、および加賀藩の学者が聴取した時規物語とも同じ)と話している。
これに対し、多くの文章では、この船は「ジェームス・ローバー号」のこととしている
昭和49年に出版された「北前船 長者丸の漂流」でも大学教授が、そう表記しているから、ここから派生したものと思われる
だが、救助した船はアメリカ・ナンタケット船籍で、船長はObed Cathcart(オビッド・キャスカート)。正式な船名は「James Loper号」である
この船は、航海日誌も残っており、長者丸漂民を救助したことは間違いない
「Loper」であるから、ローパー号と半濁音である
つまり、漂民たちの発音のほうが正しかったのだ
このときより、学者の書いたものでも、誤りはあるのだと確信して目を向けるようになった
それから、県内外の学者の論文を見ても、次々と?が出てきたのである
こちらは一介の物書きであり、こうした古文書などの分析は素人である
多くの先達というか、学者の書いたものを参考にしながら、進めていくしかない
だから、先達がいなければ、何も出来ない
それでも、それでもだ
間違いは間違いなのだ
学者とは違うが、次郎吉たちを指して「初めてアメリカを見た日本人」という表現もある
これもいかがなものか
アメリカとは、アメリカ合衆国(USA)のことなら、次郎吉たちはアメリカには行っていない
滞在したハワイは、当時はカメハメハ一族の支配による王国である
アラスカ・シトカにも行ったが、当時はロシア領である
それも含めて、おおまかにアメリカという表現だとしても「最初に―」という表現は間違っている
ハワイだと、次郎吉たちより30年以上前の1806年に、大坂の8人乗り組みの稲若丸が漂流し、アメリカ船に救助されハワイに連れて行かれた
このときは、全員がカメハメハ大王に謁見している
帰国後はハワイの文化や習慣を口述している
それに、次郎吉たちもハワイで聞いたこととして、自分たちより先に越後早川の角長の船の者がかつて滞在したことを証言しており、それは時規物語にも載っている
では、アラスカはどうか
ここでも、次郎吉たちは、自分たちより先に、この地に日本人がいたことを現地で聞いている
これは尾張の督乗丸の重吉らである
次郎吉たちが行っていない、アメリカ合衆国ということなら、尾張の宝順丸が14カ月も太平洋をさまよい、次郎吉たちが漂流する前の天保5年(1834)にフラッタリー岬付近に到達している
ここは、オレゴン州の北、シアトルから200キロほどのオリンピック半島の先端である
目の前がカナダという地点といったほうが分かりやすいかもしれない
ということで、それはこの程度にしておく
ほかにも著名な学者が、長者丸乗組員の択捉への帰還を天保9年(1838)としている論文にも出合った
これは、岩瀬を出発した時の年号であり、帰還したのは天保14年である
まあ、単純ミスであろうが、これが伝わっていくと困るのだ
最大の謎は、忽然と姿を消した次郎吉のことである
しかし、「忽然と―」と考えるのは、後世のわれわれである
ただ単に、消息を知らないだけであろう
目を悪くしていたという情報もあり、悲運のうちにどこかほかの場所で生涯を終えたとか、暗殺されたという説も飛び出す
本当に目を悪くしていたのか、これも疑ってかかる必要があるだろう
なにごとも鵜呑みにしないで追究してこそ、真実が浮かび上がるのだから
江戸での取り調べが完全に終わって、次郎吉が故郷の東岩瀬に帰ったのが、船出からちょうど10年後の嘉永元年(1848)である
それから9年後の安政4年(1857)、越後に次郎吉の足跡があったことは前に書いた
新潟大学の小林弌教授の調べで、安政4年に越後出雲崎の廻船問屋・泊屋の文書に「東岩瀬 米田屋治郎吉」が穴水の炭を運んできたと記録にある
「治郎吉」であり、「次郎吉」ではないが、屋号が同じである
東岩瀬の乗組員「太三郎」も「多三郎」と表記してある文書があり、「治郎吉」も同一人物と考えて不思議ではない。生きていれば45歳になっているはずだ
となると、雇われ船頭だったのかもしれない
そうでなければ、泊屋の文書に名前が残ることもなかろう
本人であれば、異国へ渡った者は二度と船には乗れないという掟を破って、したたかに「営業」していたことになる
また、江戸時代とは、そういう緩い社会であったことも事実だ
時代劇とは裏腹に、平和で安全な時代なのである
いま、次郎吉の消息か?と思わせる情報がある
それは富山県外だ
海のものとも山のものとも思えない段階だが、調べていくつもりである
こうしたことは地道に事実を積み重ねていくしかない