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宮城県に出張した折、大崎市の「有備館」に立ち寄った
旧仙台藩の藩校である
茅葺の書院造りで、現存する藩校としては、最古のものだという

いつも、知らないことが多すぎると自覚しているが、こうした藩校が残っていることも知らなかった

建物の成り立ちには、いくつかの説があるようだ
有力なのは、岩出山伊達家の二代藩主、宗敏の隠居所として延宝5年(1677)に建てられたという説である
その後、下屋敷や隠居所として使われたという

300年の風雪に耐えた建物は、それだけ風格を持つ
ただ、2008年の岩手・宮城内陸地震で被災し、1本の柱が根元で折れ、新しい柱で補強してあった

なにより、感動させられるのは、庭園の美しさだ
岩出山城の断崖を背景に、周囲500m余りの回遊式庭園となっている
のんびりと歩けば、水面に映る木々がさまざまな変化を見せ、その美しさは格別のものがある

わずかに色づいている葉もあったが、もう少しあとに訪れたら紅葉がさぞ見事だろうと感じさせられる
いや、秋だけでなく、写真で見ると春夏秋冬に趣がある景色が楽しめそうだ

有備館内では京都・冷泉家の展示を行っていた
東北の地で、なぜ冷泉家?と思ったら、三代敏親、四代村泰が冷泉家から夫人を迎えたという
つまり、この地では伊達の文化と、京文化の融合が見られるのである
宮城の小京都と言われるゆえんでもある

さて、この地は合併前、岩出山町という
奥の細道の道中で、松尾芭蕉が宿泊した地である
その縁で行けば、わがふるさと・滑川にも、芭蕉が一泊している
面白いつながりがあるものだ

もうひとつ言えば、越中の漂流民、次郎吉もこの地に縁がある
天保年間に北前船「長者丸」が仙台領沖で西風によって流され、太平洋上でアメリカの捕鯨船に救助されあと、ハワイ、カムチャツカ、オホーツク、アラスカへと運ばれたのち、5年後に生還した話は、このブログの「漂民次郎吉ノート」で書いているとおりだ

ロシア船によって択捉に帰還した次郎吉らは、松前藩の役人に連れられ、江戸に向かう
勘定奉行の取り調べを受けるためである
その際に、陸路を通っており、この近辺では一の関(一関)経て、荒屋(古川荒谷と思われる)に宿泊している
その後、川支に泊って、吉岡(大和町吉岡と思われる)に向かっているのが記録で明らかだ
この道中で、唯一、現在地と同定できないのが、「川支」である

いずれにしろ、この地を通ったことは間違いない
個人的な調べ物(次郎吉の足跡)とも縁があったことで、なおのこと、親しみを覚えるのである