漂民次郎吉の原稿は2008年5月に初校を終えている
だから、原稿は三一書房にあるし、その後、手は入れていない
この漂流関係の追跡調査もしていない

ところが、ネットで何気なく調べていたら、ハワイでの次郎吉らのことが書かれている放送大学の研究年報を見つけた
読み進めると、再び天保時代に引きずり込まれてしまったのである

これまで次郎吉らのことがハワイやロシアで記録されたことは知っていた
少しは読んだこともある
放送大学の年報は、ハワイで次郎吉らの世話をしてくれた宣教師「ミステ・ベイナン」つまり、ボールドウイン博士の伝記を日本語訳したものである

論文のタイトルは「ハワイ滞在中の長者丸乗組員たち」
書いたのは放送大学教授の音楽学者、笠原潔先生
ところが、2008年にこの論文を発表して、同年10月28日に、がんのため亡くなっておられる

たまたま生まれ年が、私と同じである
論文に気付いたのが今日とあって、なにか残念な気持ちがしてならない

さて、内容は「ラハイナの日本人漂流民たち」というタイトルで、メアリー・シャルロッテ・アレクサンダーという、ボールドウイン博士の玄孫にあたる人が書いたものを訳してある

大筋では、これまで知っている幕府の儒者・古賀謹一郎が記した「蕃談」や加賀藩の遠藤数馬高璟らが記した「時規物語」と大差はない
逆に言えば、次郎吉らはかなり正確に、当時の模様を供述したことが証明されたとも言える

中でも感動したのは、船頭の吉岡屋平四郎が越中富山に残した子供たちのことを案じていた優しい心根の持ち主だったことである
ボールドウイン博士は「われわれの子供を指して、kudomo(子供)と言ってみたり、5本の指を開いて5人の子供がいることを説明したり、反対側の手で目を指さしてme no see(会っていない)と表現した」という
ハワイに到着後、間もなく亡くなった平四郎の素顔がこうして描かれているのだ

そして、もうひとつ、心を動かされたのは、次郎吉らが船頭の平四郎をどう呼んでいたかについてのヒントがあったことだ

実は「漂民次郎吉」では、平四郎を「親方」という呼び方で統一した
本来、親方は船主を指す
雇われの沖船頭をどう呼んでいたかが定かでない

長者丸の漂流から丸40年
明治10年に、岩瀬の北前船が遭難した
「通久丸」(馬場家持ち船)である
こちらは英国商船に救助され、サンフランシスコから帰還している
通久丸の漂流記は、高岡新報主筆、井上江花が後年、生還者から取材し明治43年に新聞に連載している
その記事によると、船頭のことは「船頭はん」と言っている

だが、次郎吉の原稿のトーンからすると、どうもぴったりしない
迷ったあげく、「オヤジ」というのも考えたが、航海士である「親司」という職名もあるため、「親方」にしたのである

前置きが長くなったが、笠原先生によると、平四郎のことを仲間内では「the old man」と呼んでいたとある
それで、「ご老体」と訳してある

しかし、気性の荒い船乗りたちがそう呼ぶとも思えない
富山弁で言うと「年寄り」(とっしょり)のほうが雰囲気としては合う感じがするのだ

もうひとつ、気になる疑問が出てきた
「船も、船主も、乗組員たちもIko(イコ)と呼ばれる地に属していた」
「Ijero(栄次郎・次郎吉の幼名)はときおり、Iko no quinye(イコの国)と言った」
摩訶不思議なこれらの言葉である
笠原先生も「Iko」は意味不明と書いている

これを、つらつら考えると、越中富山、岩瀬、加賀藩、船主の能登屋いずれも語感的に関係がない
もちろん、ニッポンではない

イコに近いのは、「一向宗」である
これは全員が浄土真宗(一向宗)の門徒だから、納得できる
さらに「一向宗の国」ではなく「一向宗に帰依」とかいろいろ考えてみることもできる

もっと範囲を広げ、イコではなくアイコ、イゴ、アイゴ、エコウ、イッコ……
一個の国という考え方もある
後年、次郎吉たちはロシアでも、「国」について聞かれ「みな同じ国の者」と答えているからだ

それにしても、「長者丸」をChoajmur(チョアジャムル)と表記しているほどで、外国人にはそういうふうに聞こえるのであろう
その逆に、英語を聞いて次郎吉たちが判断した言葉も、今となれば笑ってしまうものも多い
たとえば、「ゴリバイ、ゴリバイ」と挨拶しているのは、「グッドバイ、グッドバイ」である

ほんの小さな事柄だが、事実を求めてパズルのように埋めていくのは学者の特権だ
しかし、われら素人でも楽しいのは言うまでもない