富山の人なら、学校で必ず習うのが黒川良安だ
今の上市町黒川(江戸期は越中新川郡黒川村)出身の医者で、加賀藩の藩医を務めた
いわば、金沢大学医学部の創設者と言ってもいい
多くの人は「りょうあん」と呼ぶが、「まさやす」という表記もある
どちらが正しいのか、どちらも正しいのか、不勉強につき知らない
ともあれ、代々、豪農だったというが、父、玄龍は医者となり、良安も父にしたがって長崎へ留学、シーボルトに医術を学んだ
さらに緒方洪庵にも指導を受け、佐久間象山にはオランダ語を教えた
象山からは漢学を学んだという
江戸では脳の解剖を行い、人々を驚かせたと言われている
弘化3年(1846)、第11代加賀藩主、前田斉泰(なりやす)の侍医となって金沢に移り住む
その後、江戸で蕃所調所の教授手伝いをしたり、種痘にも成功
明治3年(1870)には金沢医学館の教師となっている
翌年の廃藩置県に伴い職を辞して、以後は世俗を離れて風月を楽しむ人となった
金沢大学の医学部記念館には、良安が長崎から持ち帰ったフランス製人体模型が現存しているそうだ
この良安が次郎吉と会っている
いや、次郎吉から異国事情を聴取したのである
加賀藩では、儒者の遠藤数馬高璟(たかのり)が中心になって、次郎吉や太三郎ら生き残りから事情を聴いた
その成果は、10巻にも及ぶ詳細な顛末記『時規物語』となって、後世に数奇な漂流記を残した
量的なものだけでなく、質的にも、数ある漂流記の中で最高峰と言っていいだろう
その編纂者12人の中に良安がいたのである
良安にしてみれば、同じ越中の人間とあって、感慨も深かったかことだろう
特に良安は、次郎吉らが持ち帰った時計の文字の解読に貢献した
これは、ロシア領・アラスカの行政長官から加賀藩主に贈られた高さ1尺ほどの掛け時計である
時計には横文字が記されていて、オランダ語に通じている良安に判断を求めたようだ
さらに良安は、藩主の斉泰が次郎吉たちから直接(障子越しだが)話を聞いたときに同席したのも、同郷の縁からだろうか
明治23年9月に74歳で没している
残念ながら、次郎吉たちの様子について良安が書いたものは現存していないようだ
今の上市町黒川(江戸期は越中新川郡黒川村)出身の医者で、加賀藩の藩医を務めた
いわば、金沢大学医学部の創設者と言ってもいい
多くの人は「りょうあん」と呼ぶが、「まさやす」という表記もある
どちらが正しいのか、どちらも正しいのか、不勉強につき知らない
ともあれ、代々、豪農だったというが、父、玄龍は医者となり、良安も父にしたがって長崎へ留学、シーボルトに医術を学んだ
さらに緒方洪庵にも指導を受け、佐久間象山にはオランダ語を教えた
象山からは漢学を学んだという
江戸では脳の解剖を行い、人々を驚かせたと言われている
弘化3年(1846)、第11代加賀藩主、前田斉泰(なりやす)の侍医となって金沢に移り住む
その後、江戸で蕃所調所の教授手伝いをしたり、種痘にも成功
明治3年(1870)には金沢医学館の教師となっている
翌年の廃藩置県に伴い職を辞して、以後は世俗を離れて風月を楽しむ人となった
金沢大学の医学部記念館には、良安が長崎から持ち帰ったフランス製人体模型が現存しているそうだ
この良安が次郎吉と会っている
いや、次郎吉から異国事情を聴取したのである
加賀藩では、儒者の遠藤数馬高璟(たかのり)が中心になって、次郎吉や太三郎ら生き残りから事情を聴いた
その成果は、10巻にも及ぶ詳細な顛末記『時規物語』となって、後世に数奇な漂流記を残した
量的なものだけでなく、質的にも、数ある漂流記の中で最高峰と言っていいだろう
その編纂者12人の中に良安がいたのである
良安にしてみれば、同じ越中の人間とあって、感慨も深かったかことだろう
特に良安は、次郎吉らが持ち帰った時計の文字の解読に貢献した
これは、ロシア領・アラスカの行政長官から加賀藩主に贈られた高さ1尺ほどの掛け時計である
時計には横文字が記されていて、オランダ語に通じている良安に判断を求めたようだ
さらに良安は、藩主の斉泰が次郎吉たちから直接(障子越しだが)話を聞いたときに同席したのも、同郷の縁からだろうか
明治23年9月に74歳で没している
残念ながら、次郎吉たちの様子について良安が書いたものは現存していないようだ