日本を開国に向けさせたのがペリー提督
初めて浦賀沖に姿を現したのが嘉永6年(1853)である
「太平の眠りを覚ます上喜撰たった四はいで夜も眠れず」
庶民の驚きを伝えたこの狂歌はあまりにも有名だ
蛇足と知りつつ説明すると、お茶の上喜撰と蒸気船を掛けている
この狂歌があるせいか、学者の書いた本でも蒸気船4隻で日本に来たように誤って書いてあるのもあって驚いた
このときのペリー艦隊は、旗艦のサスケハナ号とミシシッピ号が蒸気外輪船で、サラトガ号、プリマス号は帆船である
とはいえ、和船はせいぜい100トンほどなのに対し、サスケハナ号は3824トンだから、まさに小山のように思えたことだろう
ただ、公儀は前年にオランダから長崎奉行経由でペリー来航を知らされていたから、「青天の霹靂」ではない
長崎から通詞を呼び寄せておくなど、準備はできていたのだ
大衆も艦隊が空砲を撃ったことで一時騒ぎになったが、そのあとは小舟を出して見物に行くなど、当時の庶民の好奇心のほどがうかがわれる
実はペリーのほうが驚いたことがある
当時の西欧の感覚では、日本は「半未開国」
なのに、乗船してきた通詞の堀達之助は堂々と「I can speak Dutch」(私はオランダ語が話せる)と切り出した
堀は英語も出来たらしいが、ネイティブと対決して言葉で負けるわけにいかないから、そう言ったとも伝えられる
さらに、公儀の役人(浦賀奉行所与力)に地球儀を見せたところ、ニューヨークやワシントンはもちろん、ヨーロッパの国々も言い当て、さらに「パナマ運河は出来たのか」と尋ねてきた
これにペリーが一番驚いたようだ
太平洋と大西洋を結ぶパナマ運河は、フランスの主導で1880年に工事を開始したが、技術上の困難から断念
1904年から再開して、1914年に完成したものである
つまり、当時は影も形もない
なのに、その計画について日本側がこともなげに聞いてきた
おそらく、オランダからもそうした情報はあったろうし、ジョン万次郎ら漂流者によって、もたらされていたことも想像がつく
しかし、最も早くこの情報を日本にもたらしたのは、越中漂民次郎吉ではないか―と、私は思っているのだ
次郎吉が公儀の儒者、古賀謹一郎に語った記録「蕃談」の中で、それを述べている
古賀はのちの蕃書調所(後年、開成学校―東京大学となる)の初代頭取(校長)だが、次郎吉の話を「新聞(新しい事実)山のごとし」と言っている
次郎吉が帰還したのは天保14年(1843)
アメリカの政治経済の仕組み、各州の状況、産物など驚くべき豊富な知識をもたらしている
片仮名しか書けなかった一介の北前船乗組員の情報収集能力と記憶力
そのすごさに驚かされる
同時に、異国で生き抜いて知識を得た秘訣が「異人であろうと誰とでも仲良くし、積極的に輪に加わっていったお茶目で好奇心旺盛な性格」によるものとの感慨を持つのである
初めて浦賀沖に姿を現したのが嘉永6年(1853)である
「太平の眠りを覚ます上喜撰たった四はいで夜も眠れず」
庶民の驚きを伝えたこの狂歌はあまりにも有名だ
蛇足と知りつつ説明すると、お茶の上喜撰と蒸気船を掛けている
この狂歌があるせいか、学者の書いた本でも蒸気船4隻で日本に来たように誤って書いてあるのもあって驚いた
このときのペリー艦隊は、旗艦のサスケハナ号とミシシッピ号が蒸気外輪船で、サラトガ号、プリマス号は帆船である
とはいえ、和船はせいぜい100トンほどなのに対し、サスケハナ号は3824トンだから、まさに小山のように思えたことだろう
ただ、公儀は前年にオランダから長崎奉行経由でペリー来航を知らされていたから、「青天の霹靂」ではない
長崎から通詞を呼び寄せておくなど、準備はできていたのだ
大衆も艦隊が空砲を撃ったことで一時騒ぎになったが、そのあとは小舟を出して見物に行くなど、当時の庶民の好奇心のほどがうかがわれる
実はペリーのほうが驚いたことがある
当時の西欧の感覚では、日本は「半未開国」
なのに、乗船してきた通詞の堀達之助は堂々と「I can speak Dutch」(私はオランダ語が話せる)と切り出した
堀は英語も出来たらしいが、ネイティブと対決して言葉で負けるわけにいかないから、そう言ったとも伝えられる
さらに、公儀の役人(浦賀奉行所与力)に地球儀を見せたところ、ニューヨークやワシントンはもちろん、ヨーロッパの国々も言い当て、さらに「パナマ運河は出来たのか」と尋ねてきた
これにペリーが一番驚いたようだ
太平洋と大西洋を結ぶパナマ運河は、フランスの主導で1880年に工事を開始したが、技術上の困難から断念
1904年から再開して、1914年に完成したものである
つまり、当時は影も形もない
なのに、その計画について日本側がこともなげに聞いてきた
おそらく、オランダからもそうした情報はあったろうし、ジョン万次郎ら漂流者によって、もたらされていたことも想像がつく
しかし、最も早くこの情報を日本にもたらしたのは、越中漂民次郎吉ではないか―と、私は思っているのだ
次郎吉が公儀の儒者、古賀謹一郎に語った記録「蕃談」の中で、それを述べている
古賀はのちの蕃書調所(後年、開成学校―東京大学となる)の初代頭取(校長)だが、次郎吉の話を「新聞(新しい事実)山のごとし」と言っている
次郎吉が帰還したのは天保14年(1843)
アメリカの政治経済の仕組み、各州の状況、産物など驚くべき豊富な知識をもたらしている
片仮名しか書けなかった一介の北前船乗組員の情報収集能力と記憶力
そのすごさに驚かされる
同時に、異国で生き抜いて知識を得た秘訣が「異人であろうと誰とでも仲良くし、積極的に輪に加わっていったお茶目で好奇心旺盛な性格」によるものとの感慨を持つのである