イメージ 1

長者丸の船頭だった吉岡屋平四郎(50)のことに触れてみたい
8月刊行予定の歴史ドキュメンタリー「漂民 次郎吉」では、佐渡をエリアとする売薬商人から船頭になった経緯を書き、船の知識はあまりなかったとしている
それでも文字が読めて社会のことを知っている知識人として、乗組員から愛される存在として描いた
実際、この事実にほぼ相違がないと思っている

さて、平四郎は次郎吉らと5カ月にわたる漂流を経て、アメリカの捕鯨船に救助され一命を取り留める
そのあと、さらに5カ月、捕鯨に付き合わされて、ようやくハワイで下されたのが天保10(1839)年9月のこと

ところが、ひと月半ほどで病死してしまうのである
これまでの緊張が解け、安心したこともあろう

アメリカの宣教師によって盛大な葬儀が営まれ、丘の上に埋葬されて墓標も建てられる
後日、石材を取り寄せて本格的な墓にするとのことだったが、現在、所在はつかめていないようだ

しかし、日本には墓がある
今日、菩提寺を訪ねた
富山市の中心部から南へ10キロ足らず
大規模な月岡団地の近くで、青柳という田んぼに囲まれたのどかな地区にその寺がある

浄土真宗・性宗寺(しょうしゅうじ)
住職の宮内昇外さん(90)によると、「子孫の方は吉岡と言って、別府で医者をしていたが、90歳近くでやめて、その後亡くなられた。今はもう音信不通」という

ただ、宮内さんから面白い話を聞いた
「平四郎というのは、近くの吉岡から富山へ出て行って成功した人です」というのだ
墓の大きさからも、それがわかるという
いや、何より驚いたのは、吉岡屋という屋号が吉岡から付けられたということに今まで気付かなかったことだ

吉岡という地名が富山市南部にあることは昔から知っていた
だが、平四郎は富山・木町(現在の荒町、総曲輪といった市の中心部)に居所があったことから、まったく思いが至らなかった

その吉岡は性宗寺から2キロほどしか離れていない
道理で、町の中心部にいた人の菩提寺がこうした郊外にあるのだ
謎のひとつがこうして解けた

平四郎の墓を見せてもらった
「10年ほど前までは、まだはっきりと見えていたのだが……」と宮内さんが言うように、風化が激しい
しかし、正面の「南無阿弥陀佛」という文字とともに左側面に「吉岡屋平四郎」と刻んであるのがかろうじて読める

その墓の後ろに似たような墓があった
宮内さんは、こう説明する
「平四郎と近い親戚で、やはり富山に出て行った吉岡屋平十郎という人がいる。菓子屋をして有名だった。その人の墓です」と
この人はのちに屋号を浜屋と変え、子孫は明治以降、「浜」と名乗っていたという
「なぜなら、住んでいたところが木町の浜と言ったからです」

そうだ
平四郎のいた木町も、河道が変わる前の神通川が流れており、「木町の浜」と言ったことは分かっている
それが一致したことに喜んだが、今度は新たな疑問も出てきた

このブログで前回書いた富山市四方の長福寺にある下村屋善右衛門の過去帳に記載された「船頭 平十郎」のことである
単純に、「平四郎の間違い」と記したが、もしかすると、この親戚と間違えたのかもしれない

以前、遠い昔の途方もないことを「天保(てんぽ)げな」という表現があることを書いた
まさに、研究者でもない人間が、「天保げな」ことを調べていくのは難しく、かつまた面白いのである