
ロシア船によって送り届けられたのは、択捉だった
もちろん、そこが日本だから当然のことである
船長判断で、いったんは蝦夷の厚岸に下されたものの、人家のない浜だったので結局、ロシア政府の指令通り、択捉へ向かった
この択捉で、次郎吉らは同じ越中である伏木の徳三郎という船頭と出会う
徳三郎は泉州(大坂)の船に乗っていたのだが、異国からの帰還の報を聞いて、駆け付けたのだ
赤飯や酒を持って慰労したという
この人物はよく分かっていないが、それほど越中と蝦夷、さらに今で言う北方領土とは頻繁に往来があったということだろう
これが天保14年(1843)のことである
さて、次郎吉らは松前藩の役人に連れられて、まずは松前城下へ向かうが、蝦夷に入った途端、またまた越中人と会う
それが東水橋の石黒屋権吉という男である
廻船問屋を営む豪商でありながら、自らも船に乗る「直船頭(じきせんどう)」だった
この石黒屋権吉は、たばこ、手拭い、足袋などを持って慰問に来ている
異国の話を聞いたあとは、亡くなった人のためにアッケシ、シヤマン、ウスの3カ所で法要を営ませてもらいたいと申し出る
おそらく、異国帰りのキリシタンの疑いを晴らすために、申し出たとも言える
とても気配りが出来て、豪気な男のようだ
この3カ所は蝦夷の3官寺なのだが、詳細は、まだ未刊行だが拙著『漂民 次郎吉』に譲ることにして、石黒屋権吉の足跡を少したどりたい
水橋(現在の富山市)の町の中心部に水橋神社がある
ここに石黒屋権吉が奉納した絵馬や石造りの手水鉢がある
手水鉢は側面に「海上安全」の文字とともに、「石黒屋権吉」の名前が彫られている
歴史上の人物の足跡を訪ねるのは、不思議な感じがするものだ
それは、すべてが今につながっているということを嫌でも思い知らされるからかもしれない