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幕末前夜に、異国から帰還した長者丸の生き残りたち
貴重な体験をし、公儀にも多くの情報を上げたが、その後の消息が分からない
特に次郎吉は菩提寺さえ不明だ

帰国したのが天保14年(1843)
つまり、黒船が押し寄せて緊迫した状態になる幕末まで、まだ間がある
このため、次郎吉より後に帰還した土佐のジョン万次郎が幕府や明治政府に重用されたのと違い、歴史の闇に消えてしまっているのだ
かと言って、次郎吉の功績が薄れることはないだろう

思い立って、165年前に次郎吉がいた空間に身を置きたいと岩瀬に向かった
もちろん、研究者ではないので調査というほどのものではない
次郎吉は5男で、帰国後は兄の米田屋七郎右衛門方に身を寄せていたことが分かっている
その七郎右衛門の家を探すのである

昔の研究本では、次郎吉の住所が東岩瀬浦方とあるために、海辺の近くとする説があった
しかし、津波などの災害により、浦方は町ごと移転したようだ
実は、地元ではかなりの研究がされていて、聞けば教えてもらえることは分かっていた
それでも、自分でたどって探したかったのだ
安易に見つかったら感動も薄いと考えたのである

岩瀬のバイ船研究会が発刊した「バイ船研究」の付録に、文政11年(1828)の地図がある
これをじっくり眺めていて、ようやく米田屋七郎衛門方を見つけた
そこは海より、ずっと奥まったところだった
文政の地図を現在の市街地図と比較対照する
目印は、近くにある正源寺である

旧廻船問屋で観光スポットとなっている森家の近くから、南へ向かって歩き始める
間もなく正源寺の前に出た
文政の地図では、正源寺の南西に面した道が変則的に曲がっているが、現代の市街地図でも同じようにカーブしている

そこからたどっていくと、文政地図には小さな川が描いてある
現代の一部の市街地図にも波線を描いてあるものがある
行ってみるとそこは、写真のような小さな排水路になっていた

道といい、用水といい、そのまま残っていることに感動する
このあたりは、車も入れない路地が入り組んでいるから、昔のままなのだろう
かつて、ちょんまげ姿の人々が行きかったことを、つい想像してしまう

人家が切れて空地のようになっているところで、「浦方の井戸」というのに出くわした
どうやら、写真の井戸の奥が次郎吉の住んでいた兄の家があったところのようだ
もちろん、次郎吉もこの井戸を使ったに違いない
一説によると、帰国後に目を患った次郎吉が、目を洗った井戸とも言われる

次郎吉が住んでいたと思われる場所は浜から約1,3キロあるが、神通川の右岸と並行する富山港へは300メートルほどだろうか
現在は岩瀬幸町と言われている

この地に至るまで、現代の地図との対照はジグソーパズルのように面白かった
なぜなら、当時の屋号を苗字にして、今もなおそこに住んでいる人々の家をいくつも探し当てたからだ

たとえば、江尻屋次郎兵衛さんが江尻さんに、水岡屋長平さんが水岡さんにという具合である
これが歴史探索の面白みであり、重さなのだろう

井戸のあるところで、天を仰いだ
どこで見ても同じ青空かもしれない
しかし、次郎吉が見た空がそこにあると思った