バラバラ殺人事件が相次いでいる。
妹を殺害したのと、夫を殺害したものである。さらに、新たなバラバラ遺体も見つかった。
単なる殺人でなく人の体を解体するという猟奇的な事件は昔からあったが、これだけ次々発生すると、やはり人間としての感覚が狂ってきていると痛感する。

縄文時代の屈葬は死者が生き返って災いをもたらさないようにという思想が背景にあると言われる。
死者や死を恐れるという、宗教以前の純粋な気持ちは古代からのものだ。
だが、自宅などで殺害すると、遺体の処理に困る。そこでバラバラにする。怖さを乗り越えた精神状態になるのだろう。まるで、ブツ扱いである。

仏教の輪廻の思想では、よい行いをすれば、優れた幸せな人間に生まれ変わるが、悪い行いをすれば下等な動物になってしまうと教える。
いわゆる「業」を説いている。「六道輪廻」というが、人道のほか、地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、天道である。もちろん、殺生をしたものは地獄と決まっている。

地獄も8段階があって、最も下は「阿鼻地獄」という。鬼によって食いちぎられ、角で突き刺され、骨も粉々になるほどの責め苦を受ける。既に死んでいるから永遠にそれが続く。つまり苦しみの極限の世界である。これを伝えることで、悪行を防いできた。

だが、いまや、地獄に堕ちるなどと言えば笑われる時代である。むしろ、メディアの犯罪報道で、犯罪に対する「慣れ」や「模倣」が出ているのだろう。

一方、現在の法律は「誰もが人間としての心を持っている」との前提でつくられている。なのに、そうした性善説では対応しがたい時代になっているのかもしれない。

以前、「殺害したのが一人では、通常死刑にならない」という判例を知っていて、そう主張した容疑者もいた。
こうした時代に、何を犯罪の歯止めとすればいいのか。
当面の抑止力は徹底した検挙、厳罰化だろうが、力だけで抑え込めないのはアメリカのイラク政策と同じようなものである。

社会のありようを変えられるのは、教育しかない。それは人の尊厳を教え、人に優しくすることを教える教育にほかならない。思想的に言えば、「因果応報」であろう。善悪すべての行いは自分に跳ね返る。