遍路の白装束は死装束だと言われる。道中で命が絶えることも覚悟しての旅路だったのである。実際、行き倒れた人の昔の墓石も見た。

 江戸時代、巡礼者たちは往来手形を持っていった。そこには、こう書かれてある。「万一病死つかまつりそうらわば、この方へご沙汰申すに及ばずそうろう。ところのご作法をもってとりおき(埋葬)くださるべきそうろう」

 白衣(びゃくえ)は経帷子なのである。手甲脚絆もそうだ。金剛杖は卒塔婆、菅笠は墓標になるという。死装束だからこそ、人間を変えることができる。これまでの自分というものと別れ、新しい自分にするチャンスである。それも歩いていると苦難が次々とやってくる。

 第一に足がひどく痛む。どんな健脚の人も同じだ。マメはできるわ、筋肉痛になるわ、ふだんなら何ともない山道がひどくこたえる。それも休憩後に歩き始めたときの痛さときたら、たとえようがない。まるで老人の歩きと一緒でそろりそろりと歩を進めなくてはならない。わたしの場合は生まれつき骨の変形した部分が特に痛んで、どうしようもなかった。

 そして、その旅は簡単には終わらない。毎日毎日、目が覚めれば歩き始める。疲れきって宿に入る。その繰り返しだ。

 最初のころは「こんなことをしていて何になるんだ」「もうやめよう」と否定的な考えしか頭に浮かばなかった。しかし、歩き進むにつれ、足の痛さは最初と変わらないが、遍路をすることそのものに疑問がなくなっていく。

 出会った人々に励まされる。お愛想ではなく心から励まされる。すると、どうしても完遂しようと思うようになる。「いつかはたどりつくんだ」と自分を勇気付ける。

 一日中、一人で歩く。孤独だから自分と対話する。そんな中から自分が変わっていくのかもしれない。つまり、自分と対話する時間が長い。それも精神的肉体的にぎりぎりの状態で対話する。ふだんの生活ではあり得ない時間だ。

 たとえば、自分がくよくよと生きてきたとすれば、それがばからしく思えてきて、これからは堂々と生きようと思う。自分を曲げて生きてきたとすれば、どうして自分らしく生きられないのかと反省する。人をうらやんでいたとすれば、そんな気持ちは吹っ飛ぶ。少なくとも、遍路を決意して歩き始めたことだけでも、人より前に出たと思えるからだ。

 それらはすべて頭で分かっていても、実際にはできなかったことである。つまり、解決するために人の力はいらない。いや、人の力では全く解決にならない。自分自身が変わらなくては永遠に悩みが解決しないのである。そして、その人間改造は、ほんの小さな変化で済むのである。

 いまでも人間改造、性格改造ができたとは思っていない。しかし、少しは生き方が変わったし、なにかが見えてきた。人をできるだけ大事にして常に感謝の心を持とう、謙虚に生きようということである。

 そうすると怖いものがないのである。