ここまで仏教の根本精神を自分なりに解釈してきた。このおおもとになったのが八十八カ所すべてで唱えてきた般若心経である。二六二文字という短いお経の中に、エッセンスがすべて盛り込まれているという。現在、使われている般若心経を訳したのは、ほかならぬ西遊記に登場する三蔵法師「玄奘三蔵」である。サンスクリット語の原典から漢訳したものだ。

 お経が分かりにくいのは、漢訳したものを音読するためであり、漢字から一定の推定はできるものの意味が分からないからである。つまり外国語と変わらない。

 般若心経の解説書はいくつも出ているので、より知りたい人はそれを読んでいただきたい。一介の遍路であった私にできるのは、自分なりの解釈だけであり、それをどう幸せに結びつけるかである。

 色即是空というのは、ほとんどの人が知っている言葉であろう。だが、真の意味を知っている人や、その言葉の使われ方は違っている場合が多い。よく使われるのは「色」という文字から「色欲」ととらえられ、「そういうものはむなしい、空である」という言い方を冗談めかして発するのである。

 しかし「色」は、前述したように目に見えるもの、物質的現象と解されている。つまり、形のあるものは「空」だというのである。この「空」というのも難しい。空しいとも言えるが、要は何もない、実体がないということであるという。

 般若心経は、この「空」を二六二文字で説明しているわけだ。何もないのだから迷うことはない。生まれもしないし、死にもしない、増えもしなければ減りもしない。老も死もない。だから永遠の安らぎが得られるというものだ。行こう、さあ行こう、彼岸へ―と結んでいる。

 しかし、すべてが実体のない「空」であるからこそ、人間が生きている価値があるとも言えるのだろう。「空」であることを認識することができる人間がいるのだから、純粋に生きて、あまりにも短くはかない一生を全うすべきなのである。

 もっと言えば、「空」から生まれたのだから、どんなにでも変わることが。空しいという虚無主義ではない。自分で変わろうとして「縁」をつくっていくことで、運命を切り開けるのだということを般若心経は説いているのである。

 人は、とかく「境遇」という言葉を使いたがる。「あの人は持って生まれた運が強い」「なんで、もっといい家に生まれなかったのか」「どうして暗い性格に生まれたのか」「美人のあの人はうらやましい」などなど。比較することで、苦が生まれる。本来、自分は自分なのだ。それ以上でも以下でもない。ところが、他人と比較して自分は不幸だと悲しむ。

 もともと、金持ちも貧乏人も、恵まれたように見える人、哀れな生活を送っている人、それぞれの悩みがある。人の悩みとは他人にはなかなか分からないものだ。だからこそ苦しむことは全くないのである。他人のことを慮って、こう思われているのではないかとあれこれ考えをめぐらす必要はない。すべての苦の原因は己の心の中にある。

 精いっぱい人を愛し、笑顔を振りまくことが自らを助ける。幸福の連鎖を心がけることだ。その気持ちが萎えたとき、もし、落ち込んだとき、自分が分からなくなったとき、何かの救いを求めたいとき、般若心経を唱えることをお薦めしたい。何かが変わるはずである。