遍路は一人で歩いていても「同行二人」という。常にお大師様(弘法大師)と二人連れというわけだ。白衣の背中には「南無大師遍照金剛」とお大師様の真言が書かれているし、金剛杖はお大師様そのものと言われる。

 だから、宿に着くと杖は部屋に持ち込んで床の間など上座に置くべきであると本には書いてある。歩いていて休憩するときも、杖を先に休ませることが大事とも書いてある。ところが、宿では部屋まで持って行ってほしいと言われたところもあれば、玄関先の杖立てに入れてほしいと言われたところもある。これは従うしかない。

 歩いている途中にベンチで休憩するとき、「どっこいしょ」と腰を下ろしてから、杖をわきに立てかけたことは何度もある。あまりに疲れて、杖を先に休ませることを忘れてしまうのだ。そのたびに失敗したなあと思うが、やはり宗教心が薄いからかもしれない。

 しかし、誰一人出会うことのない山道を何時間歩いていても、お大師様と一緒だと思うことで勇気がわいたのは事実だ。時には真言を唱え、自らを励ます。難所の遍路ころがしで、がけを上り損ねて転んで落ちた際、手から血は出たものの大きな怪我をしなかった。このときも素直にお大師様のおかげだと思えた。

 歩き遍路はまさに孤独である。山道だけではない。国道、県道を歩いていても、通るのは車ばかり。夏場だとお遍路さんは少なく、出会うことは限られている。仮に知り合いの遍路ができても、ペースが違うから一緒に歩くことは互いに負担になる。結局は一人で歩くことが多いのだ。そんなときもお大師様に守られているという気持ちが歩みの原動力になる。

 だが、私の場合、「同行三人」だと思って歩いた。私とお大師様、あとの一人は家族であり、友人であり、四国の人々である。お接待を受けた四国の人たちの心も一緒に回っているつもりでいたからだ。

 行程も半ばを過ぎたころに、ふと思ったことがある。それぞれのお寺を回り、本堂と大師堂をお参りしているが、「お大師様は、実はこの道そのものではないのか」と。さらには、「四国そのものがお大師様ではないのか」と思うようになったのである。

 そうした意味では、休憩所の汚れているところも気になったし、ごみを捨てていった歩き遍路に対して実に情けない思いがしたのは事実だ。遍路をスタンプラリーや健康ウオークとして歩いている人がいてもかまわない。だが、人に迷惑をかける行為を平然とすることに対して、情けないのである。これは遍路以前の問題だろう。