慈顔施は和顔施と似ているが、慈しむ目を言う。仏教では慈悲を重んじるが、仏像の目がそれだ。母親が子供を見るまなざしとも言える。なんの見返りも期待せず、ひたすら慈しむのが母親のまなざしだ。その意味では、施しをする方が仏様といっていいかもしれない。

 愛語施は、正しいことを分かりやすく優しい言葉で語ることを言う。四国を歩いていると、多くの人に「大変ですね。暑いでしょう」と声を掛けられた。たった一言でもどれだけの励みになったことだろう。よく、「頑張っているのに、さらに頑張れと言われるとイヤになる」という人が多い。だが、四国では素直に受け止められた。通り一遍の挨拶ではなく、心から思っているのが実感できたからだと思う。くじけそうになる心が何度救われたことだろう。

 だからこそ、八十八番大窪寺にたどりついて結願できたとき、「四国のみなさん、ありがとうございました」と自然に思えたのである。まさに自分の力でなく多くの人の力による「おかげさま」であった。

 房舎施は、休む場所を提供することを言う。遍路中に見かけた「善根宿」はその典型だ。お金を取らずに困っている人に一夜の宿を提供する。それをしたところで、物質的にはなんの見返りもない。なのに、いくつも存在する。いや、宿に限らず、軒下を貸す、雨宿り場所を提供するのも、すべて房舎施である。

 同じような意味で、床座施は席を譲ってあげることだ。床座施は誰でも。席を譲った方も一日気分がいいのに違いない。そうしたことが照れくさくてという人も多いだろう。しかし、人目を気にすることはなにもない。施しができるかどうかは、そんな小さな分かれ道一つなのである。

 欧米では、付き添っている親が子供に女性や老人に席を譲るよう注意するそうだ。それがマナーだからだ。先を争って子供のために席を確保しているような日本は精神的に貧しいと言えるのかもしれない。