四国を回っていて、通りすがりの多くの人からお接待を受けた。つまり、お金や飲み物を恵んでもらったのである。この表現は正しくないかもしれない。お大師様と同行二人だから、お布施を受けたわけである。しかし、実感としては、やはり、恵んでもらったという感じはあった。

 お年寄りからは「自分はお四国を回れないから、せめてお接待を」と言う人もいたし、若い人からは「これ飲んで元気出してください」などと言われたことも何度もあった。

 その信心深さに感動したが、なにより最初は単に驚いたというのが、正直な感想である。いきなり、「お遍路さん!」と声を掛けられたのもびっくりしたが、お金を渡されたときは、どうしていいかわからなかった。ただ、「いいんですか? ありがとうございます」と答えた。お布施を受けるときの入れ物もないから、自然と両手で受ける形になり、そのお金を手で包み込んだまま、合掌して「南無大師遍照金剛」とご宝号を唱えただけである。

 もちろん、お金や物を恵んでもらうという経験はしたことがない。だから、なんとも言えない気分になるのである。ただ、ありがたいだけではない。何も返すものがないとか、この社会で一番最下層に位置したかのような恐縮した気分である。

 そのうちに、これだけではダメだと、ご宝号を唱えた後に、「ご家族のお幸せをお祈りいたします」と付け加えるようになった。それすら、自分ごときが「ご家族のお幸せを祈ります」などということを口にしていいのかと、引っかかっていた。

 救いは、無意識のうちに「なんて、ありがたいことなのだろう」と思い、心からの感謝の念を込めて、お礼を言っていたことだった。そうしようと思ったからではない。凡人である私でさえ、自然にそう感じさせられたのである。お返しは心からの祈りなのだ。

 お接待をしてくれた人々のあの晴れやかな顔。私のありきたりの遍路話にも耳を傾け、「頑張って。必ず満願を果たしてください」などと励ましてくれる。涙が出そうになるほど、嬉しかった。それぞれ、数分から三〇分ぐらい話をした。こんなすごい一期一会はないとさえ思えた。

 お礼に、納め札を頭陀袋からだして手渡すと、すごく喜ばれた。喜捨とは、する方、受ける方とも心を豊かにするのは言うまでもない。する方にしても「して上げた」とか「恵んでやった」という感覚ではないだろう。「喜んでもらえた」という充実感に違いない。ボランティア精神と同じである。
施しを受けた人間は自然に感謝の気持ちになる。ものをもらったからありがたいのではない。温かい心をもらっていることがうれしいのだ。

 現代社会で、何かを人のためにするということは、見返りを求めているのであり、すべて思惑に基づく。誰もが損得勘定で動いている。しかし、四国で受けたお接待は見ず知らずの人に施しをするものであり、見返りは全くない。だからこそ、たとえようもなく重い。お金だけでなくお茶やジュース、栄養ドリンク、手作りのマスコット、絵手紙など多岐にわたった。それぞれすべてを鮮明に覚えている。

 いつしか四国に戻って、今度はお接待のお返しをしたい。いや、させてほしいと思っている。