もちろん、私は凡人ゆえに、六根を清浄にしなければ……などとは、もともと思ってもいなかった。しかし、山道を行くときは必死だから執着も何もない。

 息が上がり、汗だらけで苦しい歩行を続けていると、ほかのことを考えている暇がない。なにしろ十歩登っては立ち止まり、息を整える。あのカーブまで行ったら、汗をぬぐおうとか、菅笠を取って休もうとか、そうしたことを自分に約束することでしか前進できない。言ってみれば、歩くのがきついから何も考えられない。自然とすべての煩悩から脱却しているのかもしれない。

 人は何かに真剣に立ち向かっているときは雑念の入りこみようがない。無我の境地でもあり、空の世界である。仕事でもそうだし、趣味の世界でも同じだろう。仕事が嫌だと言っている人でも、それに没入しているときは、嫌だということさえ忘れている。それと同じだ。

 ところが、そうした時間ばかりではない。歩き遍路も精神的、肉体的に厳しいから、時折休む。すると、つい心の中に不満が出る。「なぜ、こんなにひどいことをしているのだろう」「もうやめようか」「まだ上りが続くのか」。それらの愚痴が次々とわいてくる。雑念というか邪念である。

 その邪念もしばらくすれば終わる。いつまでも休憩しているわけにはいかないからだ。足の痛みをこらえ、自分自身に言葉を掛ける。「前にさえ進めば、いつかはたどり着く」「上り道にも終わりは必ずある」。

 自販機のある休憩所で休んでいるとき、トラックから降りてきたおじさんに声を掛けられた。いろいろ歩き遍路の話をしたら、
「大変ですなあ。よくまあ、歩けるものですなあ」と感心された。そこで分かったような顔をしてこう答えた。
「まあ、一歩でも前進していれば必ず着きますから」

 すると、当のおじさんは、
「そうですなあ。こうして休憩していると、永久に進みませんよな」
ハッとした。カッコつけて言ったことが実に恥ずかしい。こういうことは人に言わずに、自分で心の中で納得して努力するものなのである。