遍路に一般社会の肩書きはない。社長だろうが、その日暮らしの人だろうが、巡拝中は同じ遍路である。互いに尊重しあうことで、心が高められる。いろんな人と話ができることが実に楽しい。そんなときのあるのは人としてのプライドだけだ。虚飾はいらない。楽チンなのである。

 もちろん、遍路を始めたころは、ひどく片身の狭い思いをしていた。たとえば、道端のあちこちで座り込む。足が痛くてたまらないからだ。こんなことは、それまでしたことがなかった。通り過ぎるドライバーの視線を感じ、どう思われているのだろうと恥ずかしかった。

 雨の中をずぶ濡れになってお寺にたどり着き、ランニングシャツ一枚で、脱いだ白衣を絞っていたときも、バスから降りてきた団体遍路さんの目が気になった。哀れに思われてないだろうか……と。

 夏場なので、汗だらけでいることも恥ずかしかった。なにしろ白衣から白いズボンまで汗が染み透るほど濡れていただからだ。歩いているときはいいが、昼食に入ったレストランなどでは、気が引けた。汗臭いのではとも思った。

 足が悪くてなかなか歩けず、宿について「今日はどこから歩かれましたか」などと聞かれ、あまりにも少ししか歩いていないことが恥ずかしかったこともある。

 しかし、これらはすべて自分の心の中の問題であった。出会ったお遍路さんたちは、そうしたことなど苦にもしていない感じがした。自然体であり、心が解放されているかに見えた。自分自身もそうするしかなかった。受け入れるしかなかった。すべては遍路という特殊な環境で透き通っていった。解脱したとは言えないが、気持ちは楽になったのである。