仏教で言う「十善戒」は、一番札所で買った経本にも書いてあった。私は唱えなかったが、バスの団体遍路さんたちは先達の指導によって、般若心経の前に必ず十善戒を唱えていた。
「不殺生」(ふせっしょう)
「不偸盗」(ふちゅうとう)
「不邪淫」(ふじゃいん)
「不妄語」(ふもうご)
「不綺語」(ふきご)
「不悪口」(ふあくく)
「不両舌」(ふりょうぜつ)
「不慳貪」(ふけんどん)
「不瞋恚」(ふしんに)
「不邪見」(ふじゃけん)
読んで字の通りだが、簡単にその意味を記しておく。
不殺生は、殺してはいけないということである。当たり前のことのようだが、これは生きとし生けるものすべてに対してである。不偸盗は盗むな、不邪淫は淫らなことをしてはいけない、不妄語はうそをついてはいけない、不綺語は虚飾を言うな、不悪口は悪口を言うな、不両舌は二枚舌を使うな、不慳貪は貪るな、不瞋恚は怒るな、不邪見はよこしまな考えを起こすなということである。
見て分かるように、言葉に対する戒めが多い。人間の業はそこに多くの問題があるということだろう。
遍路でも、そうしたことからなかなか脱却できないのが実態だ。不殺生、不偸盗などは当たり前のことだが、言葉に関するものでは実行できない人もいる。まずは自慢である。一日何キロ歩いたとか何度目の遍路だとか言うのが挙げられる。さらにあの宿はひどかったなどの悪口だ。
しかしベテラン遍路ほど、こうしたことがなくなる。言ってみれば、どうでもいいことなのだ。情報交換として、どこまで歩けるかなどと話をする程度で、そういうときは確かに自慢に聞こえない。
一般社会では逆だ。毎日が言葉の戦争で、自己を主張し、相手を言い負かすことに主眼が置かれている。要は自分の言うとおりにしろ、というものだ。お互いに腹を立てたり、悔しい思いをする。仕方なく陰で、相手を馬鹿にする。居酒屋で繰り広げられる愚痴のパターンである。
自慢やうそは、弱いからつくのである。自分を正当化し、誇張することによって、自己防衛を図るということだ。本来は、すべきことをきちんとして、泰然としていればおのずと人はついてくるものだ。人物の大きさはこうしたことで決まる。
「不殺生」(ふせっしょう)
「不偸盗」(ふちゅうとう)
「不邪淫」(ふじゃいん)
「不妄語」(ふもうご)
「不綺語」(ふきご)
「不悪口」(ふあくく)
「不両舌」(ふりょうぜつ)
「不慳貪」(ふけんどん)
「不瞋恚」(ふしんに)
「不邪見」(ふじゃけん)
読んで字の通りだが、簡単にその意味を記しておく。
不殺生は、殺してはいけないということである。当たり前のことのようだが、これは生きとし生けるものすべてに対してである。不偸盗は盗むな、不邪淫は淫らなことをしてはいけない、不妄語はうそをついてはいけない、不綺語は虚飾を言うな、不悪口は悪口を言うな、不両舌は二枚舌を使うな、不慳貪は貪るな、不瞋恚は怒るな、不邪見はよこしまな考えを起こすなということである。
見て分かるように、言葉に対する戒めが多い。人間の業はそこに多くの問題があるということだろう。
遍路でも、そうしたことからなかなか脱却できないのが実態だ。不殺生、不偸盗などは当たり前のことだが、言葉に関するものでは実行できない人もいる。まずは自慢である。一日何キロ歩いたとか何度目の遍路だとか言うのが挙げられる。さらにあの宿はひどかったなどの悪口だ。
しかしベテラン遍路ほど、こうしたことがなくなる。言ってみれば、どうでもいいことなのだ。情報交換として、どこまで歩けるかなどと話をする程度で、そういうときは確かに自慢に聞こえない。
一般社会では逆だ。毎日が言葉の戦争で、自己を主張し、相手を言い負かすことに主眼が置かれている。要は自分の言うとおりにしろ、というものだ。お互いに腹を立てたり、悔しい思いをする。仕方なく陰で、相手を馬鹿にする。居酒屋で繰り広げられる愚痴のパターンである。
自慢やうそは、弱いからつくのである。自分を正当化し、誇張することによって、自己防衛を図るということだ。本来は、すべきことをきちんとして、泰然としていればおのずと人はついてくるものだ。人物の大きさはこうしたことで決まる。