地獄極楽の世界を信じている現代人はまずいないだろう。私も宗教者でないし、仏教思想を無理に押し付ける気もない。ただ、信じているのは「因果応報」である。いいことをすればいい報いがある。悪いことをすれば悪い報いがあるということだ。
それは経験則で得たと言っていいかもしれない。たとえ積極的にいいことをしなくても、腹が立ったときに怒らないなど、自分をおとしめることはしないようにしている。それだけで、その日は救われていると思う。すべて「善因善果、悪因悪果」なのである。
テレビを見ていると、政治家や財界人らが出てくる。努力を重ね、才能もあり、運もよかった立派な人たちである。ところが、中には傲慢なものの言い方や態度を見せる人がいる。そんな光景を見た途端に、「なんて人間の出来ていない人なんだ」と思ってしまう人も多いだろう。長い人生をその人はどう生きてきたのか、なんのための人生だったのだろう。そう考えると尊敬できないどころか、哀れに思うのである。
人間は弱いから、ちやほやされると正確なものの見方ができなくなる。周りが立ててくれるから、その気になる。いつしか傲慢さが身につく。本人は全く気付いていない。自分が正しいと頭から信じ、なぜ世間は分かってくれないのだろう、バカばかりだと思っている。こうした図式である。
同じような人生を歩んでもそうはならない人がいる。分かれ道はそれまでの人生で何を会得したかによる。つまり自分を見失わないだけの力を蓄えたかどうかである。そうした精神修養をしてこなかった人は、次第に傲慢になっていったことにも気付かない。逆に言えば、腰の低い人ほど人間ができていると言える。堂々としながら低姿勢で人をたてる丁寧な人を見ると、立派な人だなあと誰もが尊敬するだろう。その人の目には、自分も世間も見えているのである。こんな人の後なら付いて行きたいと思う。
この違いを別の角度で言えば、傲慢な人は怒る。立派な人は叱るのである。怒るというのは、腹が立ったことを抑えられない、心の修養のできていない人のすることである。これに対して、叱るのは相手を思いやってのことであるから一八〇度違う。それは受けた人間が反感を覚えるか、反省するかで明確に分かる。仮に反省したとすれば、叱られたのである。
これとは別に、中には人に嫌われるのがイヤで叱れない人もいる。これまた罪であろう。自分がかわいいだけで、相手のことを真剣に考えていない証拠である。世間からいい人と言われているが、こうした人は自己愛だけだ。
善行を積んだか、悪行を重ねたか。すべては肩書きを外したときに自分自身が見えてくる。人間の真価などは、あの世の裁判を待つまでもないのである。
それは経験則で得たと言っていいかもしれない。たとえ積極的にいいことをしなくても、腹が立ったときに怒らないなど、自分をおとしめることはしないようにしている。それだけで、その日は救われていると思う。すべて「善因善果、悪因悪果」なのである。
テレビを見ていると、政治家や財界人らが出てくる。努力を重ね、才能もあり、運もよかった立派な人たちである。ところが、中には傲慢なものの言い方や態度を見せる人がいる。そんな光景を見た途端に、「なんて人間の出来ていない人なんだ」と思ってしまう人も多いだろう。長い人生をその人はどう生きてきたのか、なんのための人生だったのだろう。そう考えると尊敬できないどころか、哀れに思うのである。
人間は弱いから、ちやほやされると正確なものの見方ができなくなる。周りが立ててくれるから、その気になる。いつしか傲慢さが身につく。本人は全く気付いていない。自分が正しいと頭から信じ、なぜ世間は分かってくれないのだろう、バカばかりだと思っている。こうした図式である。
同じような人生を歩んでもそうはならない人がいる。分かれ道はそれまでの人生で何を会得したかによる。つまり自分を見失わないだけの力を蓄えたかどうかである。そうした精神修養をしてこなかった人は、次第に傲慢になっていったことにも気付かない。逆に言えば、腰の低い人ほど人間ができていると言える。堂々としながら低姿勢で人をたてる丁寧な人を見ると、立派な人だなあと誰もが尊敬するだろう。その人の目には、自分も世間も見えているのである。こんな人の後なら付いて行きたいと思う。
この違いを別の角度で言えば、傲慢な人は怒る。立派な人は叱るのである。怒るというのは、腹が立ったことを抑えられない、心の修養のできていない人のすることである。これに対して、叱るのは相手を思いやってのことであるから一八〇度違う。それは受けた人間が反感を覚えるか、反省するかで明確に分かる。仮に反省したとすれば、叱られたのである。
これとは別に、中には人に嫌われるのがイヤで叱れない人もいる。これまた罪であろう。自分がかわいいだけで、相手のことを真剣に考えていない証拠である。世間からいい人と言われているが、こうした人は自己愛だけだ。
善行を積んだか、悪行を重ねたか。すべては肩書きを外したときに自分自身が見えてくる。人間の真価などは、あの世の裁判を待つまでもないのである。