小学校低学年のときだった。道に十円玉が落ちていた。お金や物を拾ったら警察に届けなくてはならないと思っていた。初めて警察署まで歩いて行った。ドキドキした。しかし、持っていくものだという教えの方が強かった。
木造の庁舎に入って、入り口そばの受付に「これ、落ちていました」と出した。そのとき対応したおまわりさんは、拾得届こそ書かなかったものの、新品の鉛筆を二本取り出してきて、「ありがとう。また拾ったら持ってきて」と言った。何十年たっても、このときのことは鮮明に覚えている。家に帰ってから話をした。家族からは「いいことをしたね」と言われた。
これが今の社会だったら、たとえ百円玉が落ちていても、どれだけの人が届けるのだろう。そんな少額はもらっておけばいいとポケットに入れるかもしれない。警察に届けようとすれば笑われるかもしれない。正しいことが嘲笑の対象になった。おかしな世の中である。
繁華街では、子供たちが自販機のつり銭出口に次々と指を入れて行く光景を見たことがある。つり銭の取り忘れがないか探しているのである。食えなくてすりやかっぱらい、こそ泥を繰り返していた戦後の浮浪児とは違う。生活には恵まれているのに、さらなる欲望のために、そうしたことをやっている。だから末世なのだ。
犯罪の抑止力といえば、かつては「うそをついたら地獄へ落ちて閻魔様に舌を抜かれるよ」と子供のころは、よく言われたものである。それとは別に「誰も見ていなくても仏様や神様が見ておられるよ」というものもあった。見ておられるのは、「お天道様」の場合もある。いずれにしろ、それぞれの人の心に訴え、誰にも分からないから悪いことをしようという人間の業のようなものを認めた上で、実際の行動を防いでいた。
こうしたことを伝えたのは、お年寄りである。日々の暮らしの中で、繰り返し教えられた。いまは核家族で家の中にお年寄りはいない。いや、お年寄りでもそんなことを言っている人は少なくなった。テレビをはじめ情報化社会の中で、さまざまな知識を得た孫に笑われるだけだからだ。
それでもあえて仏教思想の中の地獄極楽について、次回から少し書いておきたいと思う。お大師様と二人連れで遍路をすると、いろいろと自制がきいて恥ずかしいことはできないと思ったように、人が生きるに当たって精神的な支柱は不可欠だからである。信じるとか信じないという問題ではない。正しく生きるための教訓だからだ。
木造の庁舎に入って、入り口そばの受付に「これ、落ちていました」と出した。そのとき対応したおまわりさんは、拾得届こそ書かなかったものの、新品の鉛筆を二本取り出してきて、「ありがとう。また拾ったら持ってきて」と言った。何十年たっても、このときのことは鮮明に覚えている。家に帰ってから話をした。家族からは「いいことをしたね」と言われた。
これが今の社会だったら、たとえ百円玉が落ちていても、どれだけの人が届けるのだろう。そんな少額はもらっておけばいいとポケットに入れるかもしれない。警察に届けようとすれば笑われるかもしれない。正しいことが嘲笑の対象になった。おかしな世の中である。
繁華街では、子供たちが自販機のつり銭出口に次々と指を入れて行く光景を見たことがある。つり銭の取り忘れがないか探しているのである。食えなくてすりやかっぱらい、こそ泥を繰り返していた戦後の浮浪児とは違う。生活には恵まれているのに、さらなる欲望のために、そうしたことをやっている。だから末世なのだ。
犯罪の抑止力といえば、かつては「うそをついたら地獄へ落ちて閻魔様に舌を抜かれるよ」と子供のころは、よく言われたものである。それとは別に「誰も見ていなくても仏様や神様が見ておられるよ」というものもあった。見ておられるのは、「お天道様」の場合もある。いずれにしろ、それぞれの人の心に訴え、誰にも分からないから悪いことをしようという人間の業のようなものを認めた上で、実際の行動を防いでいた。
こうしたことを伝えたのは、お年寄りである。日々の暮らしの中で、繰り返し教えられた。いまは核家族で家の中にお年寄りはいない。いや、お年寄りでもそんなことを言っている人は少なくなった。テレビをはじめ情報化社会の中で、さまざまな知識を得た孫に笑われるだけだからだ。
それでもあえて仏教思想の中の地獄極楽について、次回から少し書いておきたいと思う。お大師様と二人連れで遍路をすると、いろいろと自制がきいて恥ずかしいことはできないと思ったように、人が生きるに当たって精神的な支柱は不可欠だからである。信じるとか信じないという問題ではない。正しく生きるための教訓だからだ。