現代人の苦しみを見てみると、仕事上の悩みであったり、生活苦であったり、家庭問題や健康・容姿の問題、男女関係の問題であったりする。いったん苦しみ始めると、とめどがない。「なぜ、自分だけが不幸なのだ」と、運命を呪っている人もいるだろう。もしくは諦めと惰性で自分を殺したまま、日々を過ごしているかもしれない。
極端に言えば、誰もが心の中に「氷点」を持っており、それを隠して生きている。どんなに地位が高く、お金持ちで名誉があって、人からうらやましがられる人生を送っている人でも「氷点」はある。
だからこそ、年間三〇万人とも四〇万人とも言われる人が遍路に出て何かを見出そうとする。お経を一心に読み、お大師さまにすがっている。しかし、遍路で何かを得られるかどうかは、その人の心次第である。
遍路をするときに被る菅笠には、いくつもの文字が墨で書いてある。たまに前後を逆に被っている人も見受けられるが、あれは弘法大師を示す梵字の書いてある方が前で、「同行二人」と書いてある方が後ろである。お遍路を扱ったテレビドラマでも逆にかぶっている役者がいるが、これはご愛嬌だろう。
ほかにも文字がある。「迷故三界城」「悟故十方空」「本来無東西」「何処有南北」だ。これは、「迷うがゆえ、三界に城あり」「悟るがゆえに十方は空なり」「本来、東西がなければ」「いずこに南北あらん」という。つまり、「欲望や怒り、愚痴など煩悩があるから、三界(この世)のどこにいても心に城を築いてしまう。悟れば障壁がなくなるから十方が見渡せる。東西もこだわらなくなれば、どこに南北があるのか」という意味だそうだ。葬式のときに用いられる四句偈(しくげ)というもので、遍路はまさに死を覚悟した旅なのである。
死を覚悟するから、他のことはくよくよしても始まらない。いったん死んだ気になれば何でもできる。そうして人間が変わっていく。悩み苦しみのすべては、人や物事にとらわれる己の心から生じる問題である。なにも失うものがないのが一番強いのは言うまでもないが、己の心をコントロールできれば、苦しみから少しは解放される。
昔から遍路という修行が続いているのは、巡拝しているうちに、不幸を作り出しているのは運命ではないことに気付くからかもしれない。運命とはその人を取り巻く環境に過ぎない。幸福と感じるのも、不幸と感じるのもすべて、人との比較において己の「心」がつくり出すことが、はっきりと分かるからである。
極端に言えば、誰もが心の中に「氷点」を持っており、それを隠して生きている。どんなに地位が高く、お金持ちで名誉があって、人からうらやましがられる人生を送っている人でも「氷点」はある。
だからこそ、年間三〇万人とも四〇万人とも言われる人が遍路に出て何かを見出そうとする。お経を一心に読み、お大師さまにすがっている。しかし、遍路で何かを得られるかどうかは、その人の心次第である。
遍路をするときに被る菅笠には、いくつもの文字が墨で書いてある。たまに前後を逆に被っている人も見受けられるが、あれは弘法大師を示す梵字の書いてある方が前で、「同行二人」と書いてある方が後ろである。お遍路を扱ったテレビドラマでも逆にかぶっている役者がいるが、これはご愛嬌だろう。
ほかにも文字がある。「迷故三界城」「悟故十方空」「本来無東西」「何処有南北」だ。これは、「迷うがゆえ、三界に城あり」「悟るがゆえに十方は空なり」「本来、東西がなければ」「いずこに南北あらん」という。つまり、「欲望や怒り、愚痴など煩悩があるから、三界(この世)のどこにいても心に城を築いてしまう。悟れば障壁がなくなるから十方が見渡せる。東西もこだわらなくなれば、どこに南北があるのか」という意味だそうだ。葬式のときに用いられる四句偈(しくげ)というもので、遍路はまさに死を覚悟した旅なのである。
死を覚悟するから、他のことはくよくよしても始まらない。いったん死んだ気になれば何でもできる。そうして人間が変わっていく。悩み苦しみのすべては、人や物事にとらわれる己の心から生じる問題である。なにも失うものがないのが一番強いのは言うまでもないが、己の心をコントロールできれば、苦しみから少しは解放される。
昔から遍路という修行が続いているのは、巡拝しているうちに、不幸を作り出しているのは運命ではないことに気付くからかもしれない。運命とはその人を取り巻く環境に過ぎない。幸福と感じるのも、不幸と感じるのもすべて、人との比較において己の「心」がつくり出すことが、はっきりと分かるからである。