犯罪が多発している。そんな時代になったことを憂えるというより、犯人に罪の意識が見られなくなってきたことに真の怖さを感じる。ブレーキがない車に乗っているのと同じことだからだ。

 逆に目立つのが自己弁護である。一般社会は、反省する者に対して同情心を抱くが、自分の犯した罪の重さを感じずに自己弁護するものに対して厳しい。あえて言えば、「罪を憎み、人を憎む」。こんな状況に陥った社会がいいとは言えないだろう。

 被告の反省のなさを助長しているのが、弁護士ではないかという批判が出始めている。もちろん、弁護人は被告のために最善を尽くし、少しでも有利になるように図るのが仕事である。検察の指摘する事実が違っていれば戦う。有利な情状も掘り起こす。

 ところが、今の弁護士は事実関係を調べることも検事の比ではなく、裁判官を納得させられる証明は出来ていないことが多い。そして被告を反省させることも出来ない。被告の弁護という狭い役割だけに終始し、社会全体のためには活動していないのではないか。

 明治時代、弁護士は「三百代言」と言って見下された。詭弁(きべん)を弄(ろう)して、黒を白と言い含めるなどしたからである。しかし、長い努力が実って、今の地位を獲得した。ただ、司法試験は国家試験のなかでも最難関だが、「法律しか知らない人」に立派な判断が出来るわけがない。まずは人間が出来ているかどうかだろう。胸に付けているバッジのひまわりは「自由と正義」、その中心に描かれた天秤は「公正と平等」を指すという。もう一度、バッジを見つめてもらいたいものだ。