昨年、インターネットで志願者を募り、集団で自殺を決行するという事件が相次いだ。今年はあまり聞かないが、収まったとは思えない。背景にある社会情勢や、個人の考え方が変わったとは思えないからだ。突き詰めていけば、生きるのが苦しいということである。

 集団自殺があると、テレビではコメンテーターがこう発言する。「孤独を乗り越えられないのは、身近に相談する人間がいないから。それでネット上に自殺の同調者がいると共感してしまう」「多くの人が懸命に生きようとしているのに、安易に命を絶ってしまうことは残念」などだ。

 いずれにしろ、奥歯にものが挟まったような言い方が多い。日本では「死者にむちを打つな」という。死んだらすべての罪が払拭されて仏になるという思想からかもしれない。だから、こうした問題はなかなか思ったことを言えないのである。

 自殺した人は「事件ではなく、自殺です」と言い残しているとニュースで見た。しかし、自殺であろうと警察が乗り出して実況見分も行わなくてはならないし、場合によっては検視も必要だ。後始末も誰かがつけなくてはならない。自殺と言っても、自分を殺すという殺人事件であることに変わりはない。もちろん、仏教でも自殺は「殺生」としているのだ。

 ネットで知り合って集まった人たちの中には、レンタカーで集団自殺したというのもある。そのレンタカー会社は大変な迷惑をしたことだろう。ビルの屋上からの飛び降り自殺で、通行人が巻き添えで死亡したケースもある。道連れにされた被害者の遺族にとっては悔やんでも悔やみきれないだろう。

 自殺をする人は、人生に絶望しているのだから、他人のことまで考える余裕がないのかもしれない。さらに「自分の命を自分で葬ってどこが悪い」という考え方もあろう。しかし、それは「生きているのは自分の意思である」という考えからきているとも言える。「生きている」のではなく、「生かされている」と考えれば、他人だろうが自分だろうが命を絶つことは許されないはずだ。

 自殺を試みる人は、死魔(死に神)にとりつかれていると仏教では言う。釈迦が修行中にも四つの魔物が襲ってきたが、その一つが死魔である。釈迦がなぜその誘惑に負けなかったかというと、とらわれない心を持っていたからだ。人間はいろいろな煩悩があるが、それにとらわれている限り、悩み苦しむ。正しい生き方をして、不条理な欲得を排していけば、何事にもとらわれることはない。そうした心が一番強いのである。人間は必ず死ぬ。その寿命が尽きるまで、きちんと生を全うすることは大事なことなのだ。