すべては心の持ちよう……と言っても、そこに到達するのはなかなか難しい。視点を変えてみると、幸せと感じたり、不幸と感じたりするのは、すべて人とのかかわりの中で起きるということだ。だから、いかに人と接するかが問題になる。

 現代社会は人間関係が希薄になっている。それは新聞社に勤めていたときも痛切に感じていた。多種多様な人とかかわる仕事であるのにかかわらず、通り一遍の付き合いしかしないから、信頼される記者になかなかなれない。濃厚な人間関係を拒否しているのである。

 昔はあちこちで油を売る記者が大勢いた。紙面が限られているのに、記者は多かったからである。おかげで、いろんな話を聞けたし、付き合いも深かった。いまは、どの新聞社も紙面が大幅に増えたが経費削減で記者は減らしている。効率がこの分野にも及んでいる。それはビジネス論理からは当然のことではあるが、労働集約型の産業だけに、記者の数に余裕がないと表面的な記事しか出てこないのは火をみるより明らかだ。

 それに輪をかけるように、先ほど言った「人とのかかわり」を苦手とする人たちが増えてきた。外で人と会って取材するより、パソコンの前に座っていたほうがいいという人たちである。若い記者ほど、その傾向が強いから育った時代背景が大きく作用しているのは間違いない。

 かつて子供たちは、年齢を超えて遊んだ。わが身を振り返ってみても、学校の友達以外に町内の異年齢の子供同士で遊んだ。町内中を駆け巡り、今だと大変叱られるような悪さもした。一種の冒険である。だが、ガキ大将はちゃんと危険なことは分かっていて、そこは注意をする。高度経済成長前の古きよき時代であった。家にはテレビも電話も冷蔵庫もなかった。家の中にいてもつまらないのである。それに比べ、外は天国だった。

 しかし、豊かな時代になると、子供は外では遊ばなくなった。親の論理でいえば、第一に交通事故が心配だ。さらには昨今のように誘拐されないとも限らない。児童への声掛けなどが頻発する異常な時代になったのである。子供の側から言えば、家にはテレビやテレビゲームがあり、のどが渇けば冷蔵庫から飲み物を出してくればいい。外はもはや天国でないから必然的に家の中で遊ぶことになる。友達は限られてくるのだ。わが家の子供たちを見ていても、友達の家に電話をして、打ち合わせをした上で、どちらかの家で遊ぶ。

 成長してもコンピューターがあるから生身の人間とかかわることをしなくても済む。機械は文句を言わないし、言うとおりに動く。そこで外界と遮断されてのめりこむことになる。これらの現象はすべて人間関係の希薄さを生む原因の一つであろう。昨今、異常に増えた幼児虐待や凶悪事件などを聞くたびに、人間とかかわることを苦手としている子供たちがすでに親の世代になったのだと痛切に感じる。現代病の一つである。