広島の女児殺人事件で、父親が被害者の娘を「広島の小1女児」ではなく、「木下あいり」という実名で報道してほしいと訴えた。その心情はあまりにも痛々しく、事件の悲惨さをあらためて思い起こされた。あいりちゃんの写真が出たことで、以前より凶悪な犯罪だということを実感として受けとめられるようになったのも事実だ。
同時にマスコミは検察側の死刑求刑を異例なことだと報じている。つまり、通常は二人以上の殺人でないと死刑を求めないのが一般的であるから-というわけだ。判例主義とはいえ、まさにおかしな基準である。
殺人にもいろいろある。家庭内暴力の息子をついに殺してしまったとか、夫に暴力を振るわれ続け思い余って逆に殺したとか、病気の妻の世話をしてきたが、楽にしてやろうとして首を絞めたとかもある。こうした場合、情状が酌量されて実刑でも数年だったり、執行猶予がついて実質的に刑に服さないこともある。
これに対して、情状酌量の余地がないという事件も多い。わいせつ目的などは、その例だろう。殺害したのが一人だけだろうが、かけがえのない命を奪った罪の重さに変わりはないのである。それなのに昨今は、被告側から「一人しか殺していない」とか「事件当時、精神的にまともではなかった」などと死刑を免れようとする主張ばかりが目立つ。
日本人の感性は、昔から「潔い」ことに共感する。だからアメリカ型の権利主張の風潮に基づいて、自分の罪の言い訳ばかりをする態度は見苦しいと映る。広島の事件はペルー人によるものだが、日本人の被告も同様だ。まさに精神構造が変わってきたことを痛感する。
最近、死刑廃止論者が劣勢に立たされている。本来はどんな人間にも生きて悔い改める教育を施すべきだとする理想的な刑罰論ではあるが、凶悪犯の増加と、それに対する世間の怒りを斟酌しない自己の理論の主張に終始するからであろう。裁判でのなりふり構わぬやり方も、逆に本来の死刑廃止論の足を引っ張っているような気さえする。
死刑は日本では絞首によって実行される。死刑囚は目隠しの袋を被せられて首に縄を巻かれ、複数の死刑執行人(国家公務員)がボタンを押すと足元が開いて宙吊りになる。複数なのは「自分の押したボタンはつながっていない」と信じることで、人の命を奪ったという重圧から己の精神状態を保つためである。これは、外国の銃殺刑で一列に並んだ死刑執行者の大半の銃は空砲であるのと同じだ。いずれにしろ、執行される側にとって、これ以上の恐怖はないだろう。
山口・光市の母子殺害事件の被告は、事件当時18歳だったということを免罪符のように感じて、死刑はないと信じてきたに違いない。だから反省も出来なかった。いま、審理が広島高裁に差し戻されて、実感がわいてきたに違いない。事件事故の場合、人は最後まで望みを抱いて生き抜こうとする。しかし死刑にそれはあり得ない。確実な死である。
単純に「殺人には死刑を」というつもりはない。しかし、因果応報ということを知らないのでは、凶悪犯罪が収まることはないのは確かだ。
同時にマスコミは検察側の死刑求刑を異例なことだと報じている。つまり、通常は二人以上の殺人でないと死刑を求めないのが一般的であるから-というわけだ。判例主義とはいえ、まさにおかしな基準である。
殺人にもいろいろある。家庭内暴力の息子をついに殺してしまったとか、夫に暴力を振るわれ続け思い余って逆に殺したとか、病気の妻の世話をしてきたが、楽にしてやろうとして首を絞めたとかもある。こうした場合、情状が酌量されて実刑でも数年だったり、執行猶予がついて実質的に刑に服さないこともある。
これに対して、情状酌量の余地がないという事件も多い。わいせつ目的などは、その例だろう。殺害したのが一人だけだろうが、かけがえのない命を奪った罪の重さに変わりはないのである。それなのに昨今は、被告側から「一人しか殺していない」とか「事件当時、精神的にまともではなかった」などと死刑を免れようとする主張ばかりが目立つ。
日本人の感性は、昔から「潔い」ことに共感する。だからアメリカ型の権利主張の風潮に基づいて、自分の罪の言い訳ばかりをする態度は見苦しいと映る。広島の事件はペルー人によるものだが、日本人の被告も同様だ。まさに精神構造が変わってきたことを痛感する。
最近、死刑廃止論者が劣勢に立たされている。本来はどんな人間にも生きて悔い改める教育を施すべきだとする理想的な刑罰論ではあるが、凶悪犯の増加と、それに対する世間の怒りを斟酌しない自己の理論の主張に終始するからであろう。裁判でのなりふり構わぬやり方も、逆に本来の死刑廃止論の足を引っ張っているような気さえする。
死刑は日本では絞首によって実行される。死刑囚は目隠しの袋を被せられて首に縄を巻かれ、複数の死刑執行人(国家公務員)がボタンを押すと足元が開いて宙吊りになる。複数なのは「自分の押したボタンはつながっていない」と信じることで、人の命を奪ったという重圧から己の精神状態を保つためである。これは、外国の銃殺刑で一列に並んだ死刑執行者の大半の銃は空砲であるのと同じだ。いずれにしろ、執行される側にとって、これ以上の恐怖はないだろう。
山口・光市の母子殺害事件の被告は、事件当時18歳だったということを免罪符のように感じて、死刑はないと信じてきたに違いない。だから反省も出来なかった。いま、審理が広島高裁に差し戻されて、実感がわいてきたに違いない。事件事故の場合、人は最後まで望みを抱いて生き抜こうとする。しかし死刑にそれはあり得ない。確実な死である。
単純に「殺人には死刑を」というつもりはない。しかし、因果応報ということを知らないのでは、凶悪犯罪が収まることはないのは確かだ。