四国の山間地を歩いていると、お年寄りが目に付く。「暑いですね……」「お気をつけて」と声を掛けてくれる笑顔はなんとも言えず、心を癒してくれる。一方で、子供や若い人たちを見かけると、ほっとするのも事実だ。過疎地では急速に高齢化が進んでおり、日本の社会構造がいびつになっているのを実感させられる。遍路中、いくつも小学校跡というのと出合った。かつては子供たちの歓声でにぎわっていたのだろうが、過疎と少子化で廃校になったのである。
過疎・過密と少子高齢化は、密接な関係がある。社会構造が大幅に変わったのは、昭和三〇年代後半だ。農業が機械化されて、労働力として必要不可欠だった大家族を維持する必要がなくなった。同時に進行した工業化に伴い、農村部で余った労働力は都市部や、その周辺の企業に吸収される。過疎が生じるのは、当然の帰結である。
田舎にいても、新たに所帯を持つと「価値観が違う、生活が違う」からと、親との同居などは少なくなる。便利な団地に移り住み、核家族していく。子供世代だけではない。親の方も別居を願うようになる。「わずらわしいのはイヤだ、老後の生活を邪魔されたくない」となる。いったん、こうなると元には戻らない。個人主義が一層強まってくる。
こうして、家庭の力が失われた。親が元気なうちはまだいいが、年老いてしまうと面倒が見られないから問題になる。数多くの老人保健施設が必要になり、さらには介護保険である。すべて金で解決するしかなくなる。年老いた親だけでの問題ではない。当然のことだが子供を育てるのも難しくなる。女性も働いているから、より少子化になる。
要は、どんな現象にも裏表がある。車が普及して便利になったが、悲惨な交通事故が増えたように、である。正と負、表と裏。「禍福は、あざなえる縄の如し」なのだ。
便利さを求めて移り住んだ団地にしても、たいがい地価の安い郊外に造成されるから、車がないと生活がしにくい。もちろん、若いうちはなんともない。ところが年を取って運転できなくなると買い物にも困る。団地で育った子供たちは、所帯を持つと家を出て、また新しい団地に移り住むから、古い団地はお年寄りばかりが残り、高齢化が著しい。ニュータウンがオールドタウンになっている。まるで仏教で言う「輪廻」である。
過疎・過密と少子高齢化は、密接な関係がある。社会構造が大幅に変わったのは、昭和三〇年代後半だ。農業が機械化されて、労働力として必要不可欠だった大家族を維持する必要がなくなった。同時に進行した工業化に伴い、農村部で余った労働力は都市部や、その周辺の企業に吸収される。過疎が生じるのは、当然の帰結である。
田舎にいても、新たに所帯を持つと「価値観が違う、生活が違う」からと、親との同居などは少なくなる。便利な団地に移り住み、核家族していく。子供世代だけではない。親の方も別居を願うようになる。「わずらわしいのはイヤだ、老後の生活を邪魔されたくない」となる。いったん、こうなると元には戻らない。個人主義が一層強まってくる。
こうして、家庭の力が失われた。親が元気なうちはまだいいが、年老いてしまうと面倒が見られないから問題になる。数多くの老人保健施設が必要になり、さらには介護保険である。すべて金で解決するしかなくなる。年老いた親だけでの問題ではない。当然のことだが子供を育てるのも難しくなる。女性も働いているから、より少子化になる。
要は、どんな現象にも裏表がある。車が普及して便利になったが、悲惨な交通事故が増えたように、である。正と負、表と裏。「禍福は、あざなえる縄の如し」なのだ。
便利さを求めて移り住んだ団地にしても、たいがい地価の安い郊外に造成されるから、車がないと生活がしにくい。もちろん、若いうちはなんともない。ところが年を取って運転できなくなると買い物にも困る。団地で育った子供たちは、所帯を持つと家を出て、また新しい団地に移り住むから、古い団地はお年寄りばかりが残り、高齢化が著しい。ニュータウンがオールドタウンになっている。まるで仏教で言う「輪廻」である。