お寺でお参りするときだけでなく、歩いていても時折、お経を唱えた。一番札所・霊山寺で買った金剛杖には般若心経が全文書いてあった。杖は四角の白木で、四面にわたってびっしりと書き込まれている。だから、暗記していない部分は時折、杖を見ながら読経した。

 厳しい山道になると、「南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)……」と、弘法大師の御宝号(名前)を何度も繰り返した。意識したのではなく、これまた自然に出てくるのだ。第一にヘビが怖い。唱えていれば、ヘビが出てこないわけではない。むしろ、杖をどんと突く振動の方がヘビよけにはなる。それでも、唱えずにはいられなかった。

 ついで、人っ子一人いない山の中を歩く恐怖心から逃れるためである。生い茂った木々で日差しが遮られ、鳥の鳴き声以外は何も聞こえない完全な静寂が支配している空間は、歩いているとそれほど気にはならない。しかし、ふと気付くと急に怖くなる。これは体験したものでないと分からない。道幅は一辰發覆ぁL擇虜っこと尖った石、落ち葉……。目に見えるのはそうしたものばかり。時には何時間も山中の歩行が続くから心細くなる。

 もう一つの理由は、汗だくのうえ足が痛くてどうにもならない自分を元気付けるためである。何度も真言を唱え、ついで般若心経を口にする。自らの弱さを知り、仏の力借りたかったのかもしれない。歩きながら読経していたのは自分だけではない。山道で般若心経を唱えている遍路と出会ったことがある。遠くから声が聞こえたからだ。カーブ地点でようやく出会ったときに、向こうは読経を聞かれていたことに気付いて一瞬、決まり悪そうな表情をしたが、誰もが、自然とそうなるのだろう。

「お遍路さん、歩いて回っておられるなら、なお功徳がありますよ」
と、宿の人や出会った人々に何度も言われた。そんなときは、返答のしようがない。功徳ということを何一つ考えていなかったからだ。功徳どころか、一番札所・霊山寺から最後の八十八番・大窪寺まで、自分のことは何もお願いしなかった。家族やかかわりのある人の健康・長寿、幸せを祈ってはいたが、それも時折、忘れた。ぼーっとしているのである。

「無上甚深微妙法(むじょうじんじんびみょうほう) 百千万劫難遭遇(ひゃくせんまんごうなんそうぐう) 我今見聞得受持(がこけんもんとくじゅじ) 願解如来真実義(げんげにょらいしんじつぎ)……」 
 と、開経偈(かいきょうげ)から始めて、般若心経、お寺のご本尊の真言、最後に「南無大師遍照金剛」と唱えるが、唱えているだけで何も考えていない。最後に数珠を三回こすって祈ったが、このときも、お願いごとをあらかじめ意識していないと忘れてしまう。
「では、なんのために巡拝しているのか」と問われると困るが、キザな言い方をすれば、
「自分の気持ちを清浄にし、仏の前で額づく意識にひたりたい」というのが、一番近いだろう。お願いするためではなく、修行に来たのだからという意識が働いていたのである。