足の痛みに耐えて、お寺にたどり着くと、たいがい本堂と大師堂の二カ所で般若心経を唱えた。たまには閻魔堂などでも同じように読経した。短いお経だから、数分で終わってしまう。毎日続けるうち、下手なりに慣れてくる。同時に、
「他人がどう思おうと、自分が気にしなければ全くどうってことはない」
と思い直した。恥ずかしさというものは、己の心の中の問題に過ぎない。もともと他人は、私のことを気にしているわけがないのだ。いや、仮に気にしていたとしても、それがいったい自分にとって、どんな不利益があるのか……と思えてきた。
「人から変に見られないか、バカにされないか」と、気にする心が行動を制限し、どれだけ自分を狭い空間に押し込んでいたかに、気付いたのである。もちろん、他人の目を意識することで、恥ずかしい行動を取らないようになるという知恵は人間独自のものであり、よりよい社会への基礎ともなる。しかし、このことには二面性があり、たとえ正しいことでも「バカにされるのでは……」と遠慮してしまうことにつながって、多くの人を生きにくくしているのも事実だ。
あるお寺で、若い男性遍路が大きな声でお経を上げていた。自転車で四国を回っているという十代の青年だった。その読経はちっともうまくない。声を張り上げているだけである。なのに、周囲を全く気にしていないかのような堂々とした態度には感心させられた。私より、はるかに悟っていたとも言える。そんな青年の後姿に勇気付けられもし、
「人目を気にすることなく、わが道を行けばいい」
と再確認したのである。
私自身の読経は次第に調子に乗って早口になったが、心の中は真摯に祈ろうと心がけた最初のころと全く変わらなかった。まじめだったからではない。読経を始めると敬虔な気持ちになる。これがお経の持つ力と言っていい。
新聞記者をしていたころ、第二次大戦中に人間魚雷「回天」に搭乗して生き残った人から、毎日、写経をしているという話を聞いたことがある。多くの戦友が特攻出撃して散っていった。その弔いの意味も込めてのことだ。この人は企業経営者で、忙しい日々を送っているのだが、写経をしていると不思議なほど心が落ち着くという。
同じように、読経もそうした力があるのかもしれない。おおらかな気持ち、細かいことにとらわれない心、まさに透明な感じに包まれるのである。何かに吸い込まれて行く、と言ってもいいかもしれない。宗教的・霊的なものをあまり信じない私だが、こうした空間で上げるお経は実に気持ちがいいものである。
「他人がどう思おうと、自分が気にしなければ全くどうってことはない」
と思い直した。恥ずかしさというものは、己の心の中の問題に過ぎない。もともと他人は、私のことを気にしているわけがないのだ。いや、仮に気にしていたとしても、それがいったい自分にとって、どんな不利益があるのか……と思えてきた。
「人から変に見られないか、バカにされないか」と、気にする心が行動を制限し、どれだけ自分を狭い空間に押し込んでいたかに、気付いたのである。もちろん、他人の目を意識することで、恥ずかしい行動を取らないようになるという知恵は人間独自のものであり、よりよい社会への基礎ともなる。しかし、このことには二面性があり、たとえ正しいことでも「バカにされるのでは……」と遠慮してしまうことにつながって、多くの人を生きにくくしているのも事実だ。
あるお寺で、若い男性遍路が大きな声でお経を上げていた。自転車で四国を回っているという十代の青年だった。その読経はちっともうまくない。声を張り上げているだけである。なのに、周囲を全く気にしていないかのような堂々とした態度には感心させられた。私より、はるかに悟っていたとも言える。そんな青年の後姿に勇気付けられもし、
「人目を気にすることなく、わが道を行けばいい」
と再確認したのである。
私自身の読経は次第に調子に乗って早口になったが、心の中は真摯に祈ろうと心がけた最初のころと全く変わらなかった。まじめだったからではない。読経を始めると敬虔な気持ちになる。これがお経の持つ力と言っていい。
新聞記者をしていたころ、第二次大戦中に人間魚雷「回天」に搭乗して生き残った人から、毎日、写経をしているという話を聞いたことがある。多くの戦友が特攻出撃して散っていった。その弔いの意味も込めてのことだ。この人は企業経営者で、忙しい日々を送っているのだが、写経をしていると不思議なほど心が落ち着くという。
同じように、読経もそうした力があるのかもしれない。おおらかな気持ち、細かいことにとらわれない心、まさに透明な感じに包まれるのである。何かに吸い込まれて行く、と言ってもいいかもしれない。宗教的・霊的なものをあまり信じない私だが、こうした空間で上げるお経は実に気持ちがいいものである。