山口・光市母子殺人事件について、最高裁は無期懲役の判決を破棄し審理を広島高裁に差し戻した。つまり、死刑への道を開いたわけだ。しかし、これからまた裁判である。仮に高裁で死刑判決が下されたら、被告側が上告するだろう。死刑に慎重なのは分かるが、最高裁はなぜ自判できなかったのか。

 この事件は、18歳の少年による残忍な犯罪であると同時に、遺族・本村さんの極刑を望む悲痛な叫びで大きな反響を呼んできた。印象的なのは「死刑になっても癒されない。しかし、死刑以外では納得できない」という言葉だ。愛する者を奪われたことに対する心の底からの怒りが伝わってくる。

 世界的に死刑は廃止の方向にある。最も残酷な刑罰であるということ、常に誤判の可能性があることなどが理由だ。しかし、ヨーロッパに比べてアジアでは死刑廃止が進んでいない。以前、刑罰を論じるとき、「目には目を」の応報刑か、「どんな人間も更生させるべき」の教育刑であるかの二つに分かれると書いた。どちらを支持するかは、理論というより社会環境、性格などによるのかもしれない。つまり宗教や哲学の分野である。

 ただ、今回の事件でひとつだけ言えるのは、被告に改心するような状況が見えないことである。どんな凶悪な事件を引き起こしても、反省するのが人間である。なのに、命というものに対する感覚が鈍いとしか言いようがないのでは人間として扱えないと感じてしまう。むしろ、こうした状況が社会にとって怖いことではないか。

 凶悪犯罪を抑止するのは、死刑制度があるからではない。むしろ、経済的、社会的な安定にほかならない。その点、社会のレベルが悪化していることを犯罪は如実に証明している。誰もが犯罪被害者となる可能性が増えてくれば頼るものがなくなり、厳罰化を求める。それが自然の成り行きだ。日本では平安時代から347年間、死刑が行われなかった。そんな例はどこの国にもない。当時の状況は知らないが、少なくとも社会が一定レベルで安定していたことだけは間違いないだろう。

 被告の弁護人となったのは、死刑廃止論者のリーダー的な存在である安田好弘弁護士である。そのことに焦点が当たっているようだが、死刑廃止論者だからどうこうということは今回、関係がない。なぜなら、殺意はなく傷害致死と死体損壊であるという、かなり無理な主張変更をしてきたからである。真の死刑廃止論者は、被告人がどんな残虐な犯罪を行っても死刑は不当と主張するからである。

 いずれにしろ、最高裁が自ら死刑判決を下さなかったことについて、今後議論が巻き起こるだろう。司法の頂点という権威付けは、そうした対応で得られるものでないことだけは確かだ。