「観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空度一切……」
 時間がピタッと止まったかのような小さな町中の古いお寺で、また緑の山の清浄な空気に包まれた伽藍の前で、私はひたすら般若心経を唱えていた。白衣(びゃくえ)の上下に、輪袈裟をかけ、頭には菅笠。数珠と経本を持ったいでたちは、いっぱしの遍路ではある。しかし、初心者だから、まともな読経はできない。一番札所・霊山寺で買った経本を見ながら、ふってあるルビを目で追って唱えているだけだ。自己流で困るのは、微妙な抑揚が分からない。いわばメロディーである。

 バスで訪れる団体遍路の人たちが読む般若心経は、ほとんど抑揚がない。ガイド役でもある先達さんが小さな木魚を叩き、その「カン、カン、カン」という甲高い乾いた音に合わせた棒読みだ。それでも、声がそろっていて実にきれいに聞こえる。自分の読経が合っているのか、違うのか。そんな中途半端な思いで、いくつかのお寺を打ち終えていた。

 ところが、山道を七時間あまり歩いてたどりついた十二番札所・焼山寺で出会った鹿児島の修行僧の般若心経を聞いていたとき、これが本物だと思った。声の調子は高く透き通っている。そのうえ厳かだ。近くにいても遠くにいても同じように聞こえるのである。ちゃんと微妙な抑揚もあって、引き込まれるような美しいメロディーに聞こえる。頭に残っているうちに-と、すぐ真似をしてみたが無理だった。長年、読経を続けてきた本職の真似など、できるわけがないのである。

 あまりにも下手くそな読経を、人前ですることはとても恥ずかしかった。最初のころは、お寺に到着した後、境内のベンチで休憩をしながら、人が立ち去るのを見計らってから本堂の前に行き、小声で始めた。しかし、やめてしまおうとは思わなかった。遍路中の最低限の義務として、自分に課していたからである。もともと、宗教心もあまりない自分が遍路に出ていること自体に気が引けていた。だからこそ、何かの決まりをつくりたかったわけだ。それが読経だった。

 般若心経の意味するところは、いくつかの本を読んで少しは理解していた。六〇〇巻にも及ぶ大般若経のエッセンスを、わずか二百六十二文字に凝縮し、すべては「空」であると説いたものである。もちろん、意味を知っていることと、分かることは別物である。とはいえ、仏像の本当のよさを知らずとも間近に接することに意義があると言われるように、分からなくてもお経をひたすら唱えることにしたのである。