人はなぜ、幸せを感じて生きられないのか。幸せなひとときがあっても、なぜ長くは続かないのだろうか。仕事、結婚、子育て、老後……。豊かな人、貧しい人。それぞれに、悩みは尽きない。
自殺者の急増を見るまでもなく、昔に比べて明らかに多くの人が悩んでいる。人に悩みを見せないよう、いわば仮面を被って生きていることに気付きながら一生を終える人もいる。果たして、それでいいのだろうか。
二〇〇四年夏。私は四国霊場八十八カ所を歩いて巡礼した。全行程一二〇〇キロ。いわゆる遍路である。焼け付くような日差し、緑の山々、日を追うごとに黄金色に生長する稲を見ながら、私は、そんな人の一生というものを考えていた。
帰宅後、知人から寄せられた質問の多くは、
「遍路をして見えてきたものは何か」
「得たものはあったのか」
である。
意外なことに、若い人たちがそうした質問を浴びせてきた。遍路という非日常の世界の興味に加え、「人間は変わることができるのだろうか」と、素朴な疑問を持っているからなのだろう。
裏返せば、今の自分を変えたいと願い、そのきっかけを必死に求めていると言えるかもしれない。真に強い人間となって幸福な人生を送ることが多くの人々の共通の願いだからである。
もちろん、私のような凡人が遍路に出たところで悟りが開けるわけはないし、何かが見えてきたわけでもない。ただ、歩いている間は苦しい中にも妙な幸福感を感じていた。俗世間から離れた自由さだけではない。遍路となって祈りの日々を送るという、これまでにない経験が自分を変えた、と言っていいだろう。
遍路を続けるうちに、幸福とか不幸とは運命や環境によって左右されるものではなく、自らの心の持ちようであるという、当たり前のことがはっきりと見えてきた。理屈ではなく実感として、である。
どうしようもないほどの足の痛みにもかかわらず、一歩ずつ前に進めたのは、沿道で出会った人々の笑顔であり、お接待という名の喜捨であり、励ましのおかげにほかならない。いつしか精神が研ぎ澄まされ、「何かの力で生きている。いや、生かされている。足が自然に前に動いている」という感じが強くなってきたのである。
自殺者の急増を見るまでもなく、昔に比べて明らかに多くの人が悩んでいる。人に悩みを見せないよう、いわば仮面を被って生きていることに気付きながら一生を終える人もいる。果たして、それでいいのだろうか。
二〇〇四年夏。私は四国霊場八十八カ所を歩いて巡礼した。全行程一二〇〇キロ。いわゆる遍路である。焼け付くような日差し、緑の山々、日を追うごとに黄金色に生長する稲を見ながら、私は、そんな人の一生というものを考えていた。
帰宅後、知人から寄せられた質問の多くは、
「遍路をして見えてきたものは何か」
「得たものはあったのか」
である。
意外なことに、若い人たちがそうした質問を浴びせてきた。遍路という非日常の世界の興味に加え、「人間は変わることができるのだろうか」と、素朴な疑問を持っているからなのだろう。
裏返せば、今の自分を変えたいと願い、そのきっかけを必死に求めていると言えるかもしれない。真に強い人間となって幸福な人生を送ることが多くの人々の共通の願いだからである。
もちろん、私のような凡人が遍路に出たところで悟りが開けるわけはないし、何かが見えてきたわけでもない。ただ、歩いている間は苦しい中にも妙な幸福感を感じていた。俗世間から離れた自由さだけではない。遍路となって祈りの日々を送るという、これまでにない経験が自分を変えた、と言っていいだろう。
遍路を続けるうちに、幸福とか不幸とは運命や環境によって左右されるものではなく、自らの心の持ちようであるという、当たり前のことがはっきりと見えてきた。理屈ではなく実感として、である。
どうしようもないほどの足の痛みにもかかわらず、一歩ずつ前に進めたのは、沿道で出会った人々の笑顔であり、お接待という名の喜捨であり、励ましのおかげにほかならない。いつしか精神が研ぎ澄まされ、「何かの力で生きている。いや、生かされている。足が自然に前に動いている」という感じが強くなってきたのである。