
志度寺を出ると、一キロちょっとで、平賀源内の資料館がある。国道一一号線の旧道沿いで狭い道である。スクーターだから気にはならないが、車だと入りにくいだろう。こんな場所にあるのは、源内より時代は新しいが、子孫が住んでいた旧宅があるからだ。その隣が正式名称「平賀源内先生遺品館」である。
ひっそりとしていたが、受付のおばちゃんに三〇〇円を渡して入ったら、冷房を入れ、案内のテープを回してくれた。広くはないが数多くの発明品などが展示してあり、興味深い。
客がボク一人なので、おばちゃんが案内してくれた。「これが一番」と勧めてくれたのが「エレキテル」である。三〇センチぐらいの四角い木の箱の横からハンドルのような金具が出ていて、これを回すのだろう。箱の上部には金属の棒が立っており、そこから鎖が伸びている。言ってみれば避雷針のような格好だ。これが日本で最初の摩擦静電気発生装置という。何でも長崎で手に入れた壊れたエレキテルを七年かかって修復したものと説明にあった。
もともと源内は発明家として有名だが、博物学者・蘭学者でもある。その上、浄瑠璃や戯作文学にも才能を見せ、はては解体新書の挿絵から、西洋婦人を油彩画で描いたり、源内焼という焼き物まで考案したという多芸多才の人物である。各地の銅銀山の調査・開発などを行い、鉱山師としての側面も併せ持っている……とパンフレットにあった。全国に足跡を残し、各地の非凡な人たちと交流して影響を与えたそうだ。
なによりも、発想が自由で底抜けに明るいというのがとても興味をひかれる。「放屁論」などという書物があるのもおかしい。明治維新の一〇〇年ほど前に、こんなユニークな人物が日本にいたことが痛快だ。
明治の人たちが偉いから、鎖国を解いた後、すぐに世界の一等国になったというが、実は江戸時代にこうした優れた人たちがいたり、庶民の識字率も世界で最も高かったという、華やかで堅実な江戸文化があったからこそ、近代化が一気に成し遂げられたと言ったほうがいいのだろう。
ただ、この陳列館で初めて知ったのは、源内が五二歳のとき、ふとしたことから人を傷つけ、伝馬町の獄中で病死したということである。
「去年、この前を通ったのですが、歩き遍路だったので、なかなか入りにくくて通り過ぎたんですよ」。 そんな言葉をおばちゃんに掛けたことから会話が始まった。ほかにお客はいない。いろいろと説明を聞いたり、遍路の話をしているうちに、
「お茶でも飲んでいってください」と、冷たいお茶が出された。
「ありがとうございます」とお礼を言って、さらに源内談義に花を咲かせた。おばちゃんは、何人かでここの当番をしているのだという。文化サロンがあって、源内の研究・学習をする人が、この旧宅に集まって研修会などを行うとも聞いた。道理で細長いテーブルが座敷においてあった。
お礼を言って別れ、次は七キロほど先の「八十五番札所・八栗寺(やくりじ)」だ。JR高徳線と琴平電鉄志度線に挟まれた国道一一号線を西に向かう。(つづく)