安楽死が、また世間で話題になっている。富山県の市立病院の医師が人口呼吸器を外したというのが発端だが、まさに人間世界の複雑さをあらためて思い知らされる。
大きく言えば、安楽死についてのガイドラインがないということに尽きるのだろう。オランダで消極的な安楽死が合法化されてから、各国でも医師や宗教者らを交えてずいぶんと議論がされてきた。
だが、なかなか踏み込めないでいるのは、死を決めるということを神ではなく人間が判断し、手を下すという難しさにほかならない。おかげで元気なうちに、意思を示しておくという習慣もない。
医療技術が進んで臨終という概念が変わった。機械を止めれば死ぬ。つまり機械の力で生きている人が大勢いる時代になったのだ。
その中でも、たとえば、がんの末期患者で回復の見込みがない。本人も家族も同意し書面を提出している。あとは、複数の医師による検討委員会が、本当に回復の見込みがない患者かどうか判断する。これがゆくゆくはガイドラインになるのだろう。
今回、呼吸器を外した医師は患者や家族のことを真剣に思う人なのだろう。だが、たとえ家族の意向があったとしても、独断で実行に移すのは問題がある。それもこれもガイドラインがないことが背景にあると言ってもいい。
しかし、ガイドラインが出来たところで、個々の家族にとって状況はなんら変わりない。人口呼吸器を外すことに同意するのは苦渋の決断である。よりどころは、「患者の苦しみを取り除きたい」「患者のためだ」と信じるしかない。
自分の身内がそうした状況に陥ったとき、われわれはどう判断するのだろう。死を考えることは生を考えることである。どう生きるのかといった判断さえつかない人間にとって、容易には結論が出せないのだ。
大きく言えば、安楽死についてのガイドラインがないということに尽きるのだろう。オランダで消極的な安楽死が合法化されてから、各国でも医師や宗教者らを交えてずいぶんと議論がされてきた。
だが、なかなか踏み込めないでいるのは、死を決めるということを神ではなく人間が判断し、手を下すという難しさにほかならない。おかげで元気なうちに、意思を示しておくという習慣もない。
医療技術が進んで臨終という概念が変わった。機械を止めれば死ぬ。つまり機械の力で生きている人が大勢いる時代になったのだ。
その中でも、たとえば、がんの末期患者で回復の見込みがない。本人も家族も同意し書面を提出している。あとは、複数の医師による検討委員会が、本当に回復の見込みがない患者かどうか判断する。これがゆくゆくはガイドラインになるのだろう。
今回、呼吸器を外した医師は患者や家族のことを真剣に思う人なのだろう。だが、たとえ家族の意向があったとしても、独断で実行に移すのは問題がある。それもこれもガイドラインがないことが背景にあると言ってもいい。
しかし、ガイドラインが出来たところで、個々の家族にとって状況はなんら変わりない。人口呼吸器を外すことに同意するのは苦渋の決断である。よりどころは、「患者の苦しみを取り除きたい」「患者のためだ」と信じるしかない。
自分の身内がそうした状況に陥ったとき、われわれはどう判断するのだろう。死を考えることは生を考えることである。どう生きるのかといった判断さえつかない人間にとって、容易には結論が出せないのだ。