人生は弥陀の仕組まれたパラドックスだ。(親鸞の歎異抄、教行信証)
完璧に。完全に、理想的人生を送る輩は居ない。その理由は、"一切衆生悉有仏性"の原理より、全ての衆生/凡夫が[仏性より成る]のである事を,見性する為には、自ら不幸、不自由を演じ、体験して行かなければ、幸福が比較対称的に実感出来ないではないか・・・。故に仮想現実的に、空として不幸、不調、不備を演じ、体験して行く事は非常に大切な事である。故に人生を憂い、呪い、忌避し、逃れようとしてはいけない。総て阿弥陀様の仕組まれた人生劇場である。人、凡夫は皆その役者、演技者だ。(エンターテイメント)この原理をよく理解して阿弥陀様の御計らいを信じ、行じて行く事が道である。そして如何なる不都合、不自由、不幸な人生が待機して居ようと、弥陀を信じ、念仏し、執着、分別を破棄し,専ら、佛の道の清浄心に専念して行く事である。(教行信証)其れが弥陀の本願であり、必ず、極楽浄土に帰命するのだ。既に善悪を超越して弥陀が涅槃の世界に還る事を約束して居られるのだから…。此の事は家族に、皆に伝えよう・・・!。(往相廻向)先祖にも伝えて行こう(報恩感謝)いつも善人なおもて、悪人おや (歎異抄)善人でも救われる、況や悪人は当然救われる。…‥‥いつも善人顔している居る者でも救われるのだ、況や何一つ自慢げに生きない、正直な人は必ず救われるのだ。弥陀の教えを良く信じ(あかし)を立てて行く (教行信証)……例え念仏1回でも良い。いや、念仏しょうと思い立った時には既に救われて居るのだ。------------------------------------------------------------------------------------------観無量寿経と、十回互具古代インドのマガダ国のビンバシャラ王,、イダイケ夫人王女、には、子がいませんでしたが,、ある占い師の占いに依り、「ヒマラヤ雪山の修行中の、ある仙人が死んで後に、仙人が二人の間に王子として生まれて来る…」と進言します。 ビンバシャラ王は、王子を早く欲しいが為に、部下に命じ、その仙人を絞殺します。そして殺された仙人は死の直前に、「私の死を、命じた王には必ず呪い殺すぞ…」と明言して死していきます。 そうして生まれたのがアジャセ王子です。事情を知らない、アジャセ王子は、ビンバシャラ王を牢に幽閉し、更にイダイケ夫人も宮中に監禁します。そこで行き詰まったイダイケ夫人は、釈迦に、念じ、相談を申し出ます。そうしたら釈迦は空中を飛来して、イダイケ夫人に阿弥陀仏の極楽浄土に就いて説教します。其れが観無量寿経です。即ち、阿弥陀様が総ての輩を救われて極楽浄土に引導されるのだと。…しかし其の為には阿弥陀様を信じなければならない。其の為には例え一回でも良いから「念仏せよ」と…。 (1念儀)そうすれば弥陀が来迎し、極楽浄土に引導して下されるのだと。其れが、アジャセの様に肉親殺しの五逆重罪であっても。即ち、極楽浄土の救いは、絶望の体験が必要です。即ち、真に迫ったアジャセ王の様に、五逆重罪人が必要なのです。即ち、アジャセ王は阿弥陀仏に依って命ざれた罪悪役の役者です。(エンタテイナー)其れは大変辛い役です。だからこそ、、此の大役の演芸が有ってこそ、釈尊の無量壽教の話を聞く事が出来、阿弥陀様の極楽浄土に行く事が出来るのです。其れが阿弥陀様に救われる極楽浄土です。其れは大般涅槃経、観無量寿経、の一切衆生悉有仏性の原理です。生きとし生けるものは皆本来皆仏性です。皆、仏に帰るのです。例え罪業深重の輩でも。‥‥しかし、信じない無い者は、その業を担って生まれ変わらねばなりません。其れが輪廻転生です。我々凡夫周辺の邪悪な嫌な人は皆仏様が仕組まれた役者です。観音様(観音三十三変身)です。嫌な役を命ぜられており、人々が気ずく様に、悪役を演じて居られるのです。そうです実は善智識なのです。一時も早く其の事に気ずいて逆に、拝まねばなりません。‥‥‥南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・・…次に如何なる悪人も救済されるのはなぜかその理由は法華経に有る十回互具の教えである。十回とは、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天、声聞、縁覚、菩薩、仏の十世界である。其の夫々の世界にも他の九回世界を具備して居ると言う事である。即ち地獄界の人でも仏界心を有し、仏界の人でも地獄の心を有して居る事である。其れは即ち一切衆生、有情無情の世界であっても,悉有仏性の原理である。即ち親鸞の教説する教義は、全ての人、悪人も皆弥陀の救いに供せられる原理である。悉有仏性で有り、本性仏性だからである。だから其の原理をよく理解認識して、弥陀を信じ、成仏して行けばよいのだ。五悪,十逆の悪人の懺悔贖罪とは。人殺しの様な最悪重罪人が仏性見性出来るのは、罪を憂い、悲しみ、号泣し、血の小便、血の涙が出るぐらい悔み、人に身を捨てて贖おうとする志向が出て来ないといけない。普通の懺悔では贖罪とはならない。よくよく思行を貫らなければならない。r