親鸞と法然上人の教えの相違。
共に浄土系であり、親鸞の師匠が法然である。両者の著書として、親鸞は教行信証,、弟子の唯円の歎異抄が、法然の選択(せんちやく)本願念仏集がある。見性成仏は念仏を至上のものとする教義である。其の為には法然は四六時中の日課念仏を説き、親鸞は例え一回でも良いとしている。前者を多念儀、後者を単、一念儀と称している。然し両聖人とも、阿弥陀仏の御誓願に依り必ず救済される(成仏)と言う。其れは、釈尊の、一切衆生悉有仏性、同時成道の教義が根底に有る。唯、やや相違するのは、前述の、年中の多念仏と,一時(いつとき)の念仏の違いである。親鸞は更に、簡略化、「念仏を思い立たった時、既に阿弥陀仏の救済を受けて居るから、安心せよ…」と。と豪語している。その根拠は、既に「全ての人は仏性より成り立っている」為、救われて居るのだ…!」と。唯「其の摂理を知らずにいる事が成仏の可否に影響して居るのだ…」と説く。凡夫小生も此の説を強く支持する。即ち成仏の範疇から脱落するのは、悉有仏性の理念を無知であるが故に、「成仏は絶対有り得ない…」との思い込みに誘導されて、五次元現界に、帰幽しても自身の煩悩心で浮遊するからである。即ち、本性仏性を強く自覚しているならば、次元の変動が有っても、仏性は悉有し続け、成仏が生起している筈である。根底に置ける、疑心暗鬼が、成仏の帰命を妨げているのである。今一つ、法然は、御先祖にも申し上げよ…と説いたが、親鸞は「、自身が成仏出来れば、周辺の縁霊、縁者は皆成仏する」と言う、「ご同朋」友説を力説した.然しそうではないのである。霊界の霊人も、四次元現界の子孫も同様である。無知は次元の変動が有っても変わらない。故に、霊人にも等しく、悉有仏性の理を悟らせねばならない。親鸞は「私は一度なりとも、追善供養の為に先祖に、念仏をした事は無い」と豪語した。其の親不幸の因縁に依り、高齢になった時、盲目となり、人生に大変支障を来たしたし、更には、最愛の長男の善鸞が親不孝しをした為、義絶義縁の破綻を来たしている。正に親不孝の典型的因縁悪果である。先祖えの追善供養は報恩感謝問題であり、四次元現界も、五次元霊界間も同一である。故に霊界との係わりが、必然的に霊界からの催促、叱咤、禍福が有り,現界での人生に大きな影響が生ずる。故に現界、霊界に関わらず、正しい生き方、即ち、見性成仏を熟知して行かねばならない