首題の「光明遍照十方世界」は「念仏衆生,摂取不捨」「南無阿弥陀仏」と続きますが、此のお経は観無量寿経の真身観文(しんじんかんもん)の最も有大事なな一節です。
 
浄土宗(法然上人)、融通念仏宗(良人聖人:法然上人の師)、真宗(親鸞聖人)では念仏による功力(くりき)を最高のものとして強調されています。
 
その意味は。「仏様から発せられる仏徳の光は、十方(天地左右)無限の世界に遍く行き渡り、宇宙に満ち満ちており、念仏する衆生は、一人残らず此の光で掬い取られ救済に預かる」。
 
即ち、「救われずに捨てられる様な事は絶対にないのだ」。
だから唯々念仏をしなさい。念仏以外に、念仏を超えるものは無いのだ」と言うお示しであります。
 
之は之で正しいのですが、私の解釈は更に次の様にもっと絶対的救済に預かる解釈をしています。
 
先ず「光明遍照十方世界」の意味ですが、「仏の徳」が「十方の世界に光輝く」という抽象的な事を言っているのではなく、
 
<仏の意識、仏の心、無量寿の心、大心霊、大生命心、宇宙意識>が、光の様に、宇宙の隅々まで遍満し、あたかも光り輝いているが如くである。
 
其れは絶対的意識であり、善悪、良否、等の相対意識でなく、一元の絶対意識、一元の絶対の大心であります
 
即ち人間的には、全ゆる事に、自己を中心とした、自己に都合のよい相対的、優劣を付ける見方が誰ににも有るといえますが、其れは光明の「陰」というものであり、一方一切自我の無い、あるが儘の清い見方が「光明」というもので有ります。
 
仏は元より清浄心で有り、其の清浄な心意識が、光明遍照しているのであります。
しかし人は、キリストの説く「アダムとイブ」の、禁断の木の実を食して居ますので、全てについて、相対的な二律背反した解釈をしてしまいます。
 
其れは仏の光明遍照を遮り、影を造って居ると云えるのであります。
 
いま一つの解釈は、「光明は大宇宙、仏、の大霊であり、其の大霊が宇宙に遍く存在し、光り輝いているのだと」。
 
「其れは霊なる光明が宇宙に遍満し、遍照している』と言う事であります。従って遍満する宇宙大霊の其の意識(宇宙意識)、絶対的な心(宇宙絶対心)が光明として光り輝き続けているのだと。
 
さて其の「絶対心」とは何かと言いますと、やや相対的解釈になりますが、「宇宙の全ては一体であり、「調和有らしめる処の清い心」を言うのであります。
 
其の理由は、「宇宙が空なる一体で有るためには、其の一体性を、仮に二元、相対に表現した時も、矢張り、絶対、一元を維持しなければなりませんので、其の手段として、「調和」と言う手法で持って「一体性」を図らねばならないからです」。
 
其れが「宇宙意識(心)であり、仏心」、であります。
 
そしてその事を念頭に無く、其の宇宙意識、仏心を乱す様なことがあれば、
即刻、軌道修正が始まるのであります。
 
其れが釈尊の悟られた、因縁生起の「因縁果」の「縁起の法則」であります。
 
即ち因縁晦(くらます)ます事は出来ないのであります
因縁は宇宙生命の「心意識」だからです。
 
ですから凡夫は此の「調和の意識を常に持続しなければなりません」。
 
それでは「調和」とは何かと言いますと、其れは自他不二(貴方も私も同じ、貴方は私、私は貴方)と言うこであります
何故ならば双方とも同一の仏の大生命を生きているからです。
 
そして其れを具現化するために、布施(自分の為ではなく、人の為にする)、忍にく(辛抱)、持戒(間違った事をしない)、禅定(心を静める)、精進(一生懸命になる)、智慧(よく考えてから言動する)の六つの生き方が有るのです。
(之を菩薩の六波羅蜜行といいます)。
 
此の実践が”調和を図り”、全ての人が至福の幸福(涅槃)感が得られるのです。
 
そして一方では此の調和を図る意味として、「全ての人、生きとし生けるもの全て、有情、無情の全て、山川草木国土迄の全てが」、「無量寿、妙法、宇宙の大生命、大心霊、大神、久遠永遠の命」、が顕現したものであり、皆仏の命を宿し、佛性(仏の大調和心)そのものであると、意識しなければなりません。
 
そして「我等自らも、仏の命よりなるのだ!…」と、そして、ついぞ、仏の名を呼んでしまうのが念仏であります。
 
其の念仏は自己の外に有る相対仏ではなく、自己を顕現している仏、即ち<自己も仏である>という意識の念仏であります。
 
即ち、自己が仏を憶念しているのではなく、擬人的に仏が憶念する念仏であります。
 
仏が自ら、”自らの仏の名”を呼ぶ念仏です。
ですから当然、仏側の摂取不捨の威力(いりき)に遭うのは当然であります。…
 
繰り返しますと、宇宙に遍満する絶対一元の、宇宙の大生命心、宇宙心、宇宙意識、仏の大絶対心は、其の自らの一元の心を、顕現する為に、宇宙を仮に創造し、更に、自ら人を仮現して仏心を感得するのであります
 
其れが調和、愛であります。
 
そしてこれらの事に未知であり、自我に溺れる者は絶対心と異にする為に其の光は
暗く、暗闇の状態にあります。ゆえに其の者は輪廻転生して、中々成仏は出来ないのであります。
 
然し仮現された我等人間は常に仏に帰命する(帰る)為にには、仏を憶念し、自らの名を唱名するのであります
 
此の事は法名、戒名(即ち釈名)を付ける由縁でもあります。
 
ですから念仏すれば、仏がその人を全て漏らさず救うと言う相対的、他力的な教えでは無いのです。
 
何処までも阿弥陀仏と念仏行者とは一体であります。
 
仏を自分の外に有る救済者として見るのは間違っています
仏の無常なる仮 顕現者が己であります。
 
しかも全ての生きとし生ける一切衆生が、皆一体の仏の空なる仮現者であり、全ては、<調和と言う愛>を実現していく存在者なのです。
 
具体的には色んな詮索をせず、あるが儘に、素直に見る人は(相対的に見ない人)
・全てが一体として見る人であり、
・自他不二を見る人であり、
・宇宙の調和を見る人であり
 
其の様な人にとっては、「宇宙は遍く、光明が光り輝き照らしている」と感じる人であります
そして其の心境に至っている人を、「悟った人」と言い、、又自他不二の行動、言動をして行く人を「成仏した人」と言います。