此の世現象の世界は全て愛によって構成、運行して居ます。此の事は表面だけを視て居ますと中々理解し難い事ですが、理論上そうなって居るのであります。
前章にも触れましたが、宇宙の一大生命は絶対的に一元でありまして二元、三元、…になって居る訳では有りません。
其の事を一大心霊、一大生命、永遠の命、普遍、無量の生命、無量寿、妙法、等と云います。
絶対一元の大生命は只一つであり、二つ無く、ゼロでも有りません。
絶対一つが無限の現象を表す為には、其の無限の現象を、仮のものとしなければなりません。
(仮のもので無い場合は、現象そのものが固定し、変化する事が出来ないのです。因みに人も生物も、動く事、成長する事、努力すること、見たり、聞いたり、話したり、食べたり、等々等は無いのです)。
(全ては変化が必要となります。
即ち変化が有るから、生きがいとなる訳です)。
(裏返せば「変化」こそ、仮の現象で有り得る訳であります。
即ち絶対性が無い事になります。)
又無限の現象である為には、各現象は調和しておかねばなりません。(一つが個々に顕れる為には調和の原則に従わねばなりません)、又仮現である為には無常(無限)に変化させねばなりません。
又常に調和を堅持する為には、個々が愛し、愛される絆が無ければ、維持、持続出来無いのです(ばらばらであれば調和は保持出来ません即ち調和が絶対一元をキープして居るのですから)。
即ち全てが、愛と云う抽象的、<帝釈大網>(帝釈天の宇宙の網)に依って構成されて居るのです。
例えば母親から赤子が生まれるのも、親に育てられるのも、動植物を食して生きて行くのも、有りとあらゆる現象において、生かし生かされて居ます(食物連鎖)。
其れ等は皆愛と云うネット(網)で形成されて居るのです。
即ち全てがお互いに生かし合いを本文として居るのです。此の生かし合いと云う愛の原則が無かったならば宇宙は崩壊して居ます。
次に此の愛を助行する為には、忍辱(にんにく=辛抱)があります。
其の辛抱は何かと云いますと、他から受ける迷惑に対して、即座にし返すのではなく、辛抱する事を云い居ます。
其の辛抱、耐えると云う事は、相手に愛を施した事になります。
その最も顕著な例が、キリストの十字架受難です。
人は自己が同じ大生命の仮現の姿である事を知らぬが故に、罪を犯してしまっている事を、思い出して欲しいのです。
全ての人、一切の衆生は皆同一の仏の生命です。
自分だけの命と云うものは有りません。
生きとし生けるもの、有情、無情、全てが宇宙の大生命を其の命として居ります。
其の事を、お釈迦様は<山川草木国土有情無情同時成道>と仰いました。
皆同じ絶対一元の大生命を生きて居るのです。
そしてその大生命は一元で有る為、一元を表現する為に、調和を宇宙心、宇宙意識として居ます。
即ち一大生命の心霊、其の意識は調和なのです。
<調和こそ>、一元を表現するものです。又其の調和こそ、人間次元では、愛其のものです。即ち<愛こそ>絶対一元を表現出来るのです。
愛は仏法では慈悲と云い。
神の世界では愛と云います。其事は「仏は、慈悲也」。「神は、愛也」と云う事になります。
慈悲、愛は、人に愛を与え、自らは自己犠牲して、苦に耐える事であります。
其れを慈悲喜捨と云います。
自己を捨てて人の悲しみを受け入れ、愛を与えて行きます。
そして其れを自己の最高の喜びとして行く事で有ります。
其れが仮現であり、仏の命を自己の命とする人の生き方であり、其の生き方をする人が、正覚、悟った人、成仏した人と云います。
人生の生きる目的はこう云う事だったのです。
愛が全てなのです。