職場に行くのが嫌になる。綾子は今日も勤めている病院に行った。彼女が働かなくても夫の稼ぎとビルのテナント料で家計は余裕がある。最初の頃は意気込んでカウンセリングをしていたが、クライアントの不幸と嘆きが彼女自身にも滲出してきた。仕事と家庭を切り離す主義だったが否応なく仕事は彼女の心を蝕んでいった。彼女は大学院まで行って人間の心理を学んだが、この四年であらゆる不幸を知ってしまったような気になった。それに対して彼女が出来ることは解決への糸口を探してアドバイスすることのみである。時給一万円の仕事なんてそうないだろう。彼女が貰えるのは六割程度だがクライアントは全額払っているのだ。生活保護の人からも全額貰っている。彼らにとって毎月一万円は痛い。いわゆるワーキングプアの人はもっと痛すぎる。その人たちに自分は的確なカウンセリングをしているだろうかと彼女はいつも自問する。カウンセリングの途中で、予約したのに来なくなる人がいる。そういう人は料金が払えなくなるからだろう。或いは綾子のアドバイスが的確でなくて料金に見合わないと思ったからかもしれない。彼女は自分の存在意義を考えた。知識に富み有能なカウンセラー以外はいなくてもいいのかもしれない。私がこの世にいなくてもいいのかもしれない。でも夫と息子のことを考えたらそんなことは出来ない。

 

 綾子にとって憂鬱な、三宅崇史との七回目のカウンセリングが始まった。三宅はあの後、予約をしていたのだ。それを受付が断り切れなかった。どんな顔をして会えばいいんだろう。

「その後どうですか?」

「例の、虚無についての小説を書いていますよ。百五十枚近くにはいったと思います」

「『無から生まれ、幻を生き、無に還る』でしたね」

「私はこの世は実体のない夢のようなものだと思っているのですよ。宇宙が生まれる以前のことが知りたいとずっと思ってきました。宇宙がビッグバンによって誕生したと言われていますが、点状のものからこの大宇宙が創られたなんて、いくら科学者が言っても夢物語ですよ。私はこの世は夢のごとき幻想だと思っています。私もあなたも夢の中を生きているのです。なぜ生まれ、なぜ生き、なぜ死んでいくなんて永遠に分かりません。分からないからこそ人は国家を作り法律を作るのです。それによって曖昧さを無くそうとしているんですね。タイトルは正式には決まっていないので、『ル・ネアン』になるかもしれません。まぁ、世に出るあてもないのですが自分の中では精いっぱい書いています」

「フランス語で『虚無』という言葉ですね」

「一か月かかって五十枚程度ですか。遅筆のようですね」

「あらすじをあらかじめ決めてから書く方ではないので、どういう展開になるか分かりません。或る程度書いてから気に入らなくて削除した部分もけっこうありますのでなかなか進みませんね」

「ご自分ではどういう所が削除の対象になるんですか?」

「そうですね。主題に沿っていない文章とか、あまりに自分の中でアドリブすぎると思った文章ですね。

実はそれと並行して『ボクオーン』という百枚程度の小説を書き終えました。これは生活保護者についての小説なんですが、非常にパンクな感じがする作品になっています。まぁ、読む人によっては『愚かな』小説ですね、でも分かる人にとっては分かるという小説です」

「最近は体調はいいのですか?」

「そうですね。書きたいものを書かないでいると不調になります。書いている間はいいようです。と言っても五十代なので休み休みするしかありませんね。部屋も乱雑ですし掃除業者に頼まないと無理かもしれません。お金がかかってしまいますけど」