今日は「キャリア教育のウソ」(児美川孝一郎、ちくまプリマー新書)の読書メモです。


●概要●
一般に流布するキャリア教育に潜んだ盲点や罠に警鐘を鳴らし、王道に立ち返るよう提唱する本。
結論は、「銀行型」から「料理教室型」で学ぶスタイルに変われ、すなわち自分で考える力を身に付けよ、自分で未来を切り拓くマインド・覚悟を持て、というもの。



●気付き/印象深い点●
・一般にキャリア教育と言われるときの意味は本来の意味より狭い。本来の意味は、職業や就労への適応に限らず、ライフキャリア上の様々なイベントや転機に対応できるための意欲・態度・能力を身に付け、将来担う役割を担えるよう教育すること。

・日本でキャリア教育の必要が叫ばれるようになったのは、若年雇用問題(雇用難が引き起こすフリーター化)が契機。すなわち、日本の経済基盤を崩壊させ社会保障システムの機能不全を起こす事態の対処として「目標を立てられない、目標実現のための実行力が不足する」若年者を鍛え直すことをお上が強く推進したからであり、決して若者の可能性を広げようという思想ではない。これは若者が憤るべき点である。

・今は俗流キャリア教育が跋扈している。3系統あり、①自己理解系 ②職業理解系 ③キャリアプラン系。

・「やりたいこと」「やれること」「やるべきこと」が交わるところで進路決定すれば、実現可能性が格段に上がるだろう。しかし、俗流キャリア教育では「やりたいこと」にばかり重視されており、現実と折り合いが付けること、なにより社会的分業の中のどこかの「役割」を引き受ける視点が欠けている。とくに、「やるべきこと」に目を向けるべき。現実問題として仕事はそこに多く存在している

・そもそも将来のキャリアを計画できるのか。長期のキャリアは、計画に基づいてのみ歩まれるものではなく、偶然めぐってきたチャンスを生かすことが次なるキャリアへの道を開くことが圧倒的に多いという「計画的偶発性」理論が注目を浴びている。

・あらためて、いまなぜキャリア教育が求められるかというと、社会構造の変化で従来「標準」とされてきたモデルが崩れているのに、新しい「標準」が成立しておらず、組織や制度などに頼って生きていくわけにいかないため、個人が自分の人生の責任を引き受け、キャリアにまつわる選択や判断、決定を行わなければならない状態だから。



●感想●
キャリア教育で陥りがちな盲点や誤解などを網羅的にわかりやすくまとめてあり、初心者にはちょうど良いレベルでした。

私自身、今まで、将来就きたい仕事の選択肢を増やすこと、自分のやりたいことを見つけること、両者をマッチングさせることがキャリア教育だと思っていました。

筆者が俗流キャリア教育と喝破している内容そのものですね。

キャリア教育が対象とするのは、人生の中の一部にすぎない仕事だけではなく、もっと広く人生における役割を引き受けられるようにする力を養うことだという点は、新しい発見です。


確かに、仕事は人生のすべて、というのは昭和の企業戦士的な考えであって、実際には人は仕事をするためだけの存在ではないわけで。まぁ、仕事ができるのもかなり大事だけど。

家庭や地域など様々ところで役割を果たすことがライフステージごとに求められるから、求められる役割をきちんと担っていけるようにするのがキャリア教育だというのは、大いに納得です。


そう考えると、キャリア教育が対象としているのは、本来は「生きる力」そのものだといえます。

すなわち、その時々で求められる役割や、偶然めぐってくるチャンス(ピンチもあるかも?)を引き受け、最後までやり遂げる意欲と能力を伸ばすのがキャリア教育のなのだろうなと。

生きる力というのは相当さまざまな分野の知識や経験の上に成り立つと思うので、経済・文化・国際情勢・政治などなど、様々な分野の広い知識を収集し、自分で咀嚼し、未来を切り拓けるというのが理想、ということなのかもしれません。




…。

うわ~大変だなぁ…どれだけの人ができるのかしら?
私自身、できる気がしないです(笑)

ですが、計画をあらかじめ立てたらそのレールに沿って進んでいけば問題ないというご時世ではなく、数年後には今就いている仕事が無くなっているかもしれないわけで、どうやって社会の変化に対応して仕事を得ていくか、社会の中で役割を担うかを学び続ける力を得ることは自衛のために必要だろうと思います。


色々書きましたが、まとめると、

キャリア教育で焦点を当てられがちな自分探しではなく、社会、とくに社会のニーズである「やるべきこと」を果たせる力を身に付けることに主眼を置くことが本来のキャリア教育なのだなと認識を新たにしました。