◆松本五郎さん
画家。1920年12月4日生まれ。鳥取県出身。
旧・旭川師範学校(現・北海道教育大学旭川校)美術部員。
1941年9月20日、治安維持法違反の罪で検挙され、1年3ヶ月もの間旭川刑務所に投獄される。
生活図画事件の被害者の一人。
音更町在住。
私は大正9年、鳥取砂丘近くの湖山村に生まれた。父は松本與市(まつもと・よいち)、母はスエ。両親兄弟に可愛がられ叱られることも無くのびのびと育った。砂丘は私の遊び場だった。
私が小学校に入ってすぐ、4月の下旬に、父が「北海道に行きたい」と言い出した。北海道拓殖計画(第2期)の話を聞き、土地を開けば自分のものになるとの謳い文句に希望を抱いたのだ。そんな訳で家財道具を処分して鳥取から10日かけて北海道の根室・厚床に入った。厚床から目的地の中標津までは汽車が無いので馬の牽くトロッコで移動した。着いた所は楢の大木が生い茂る原野だった。
開拓民としての生活は充実したものだったが驚く事も多かった。ある時、私と兄と祖父とで森へ釣りに行った事があった。ふと見ると木の上に子熊が2頭いる。続いて現れた母熊。それを追い払おうと祖父は杖で木の幹をバンバンと叩いたのだが、これが良くなかった。母熊は怒ってしまい、兄が熊撃ちを呼びに走ってなんとか事無きを得た。
中標津の特別教授場という小さな学校に通い、そこを卒業してからは高等小学校に行きたいと思ったのだが、当時その地域にはまだ高等小学校が無かった。私は親元を離れて鳥取へ戻り、伯母の家から湖山尋常高等小学校に通った。この学校は大正デモクラシーを体現したかのような学校だった。校訓は「自治」。学芸会の脚本選びもマラソン大会もすべて子供らが企画運営し先生方はそのサポートに回っていた。学校は子供の自主性を重んじてくれたのだ。そのような風土の土地柄だったのだろう、地域ぐるみで学習活動に励んでいた。
私は少年時代に生まれ故郷で自由な空気を謳歌した。幼い頃に培ったその精神は後に私を襲う軍国主義の荒波にも消えることは無かった。
高等小学校を卒業し、再び北海道へ渡った。我が家の経済事情から両親に師範学校への進学を勧められ、受験を決めた。当時、北海道には札幌・函館・旭川の3ヶ所に師範学校があった。釧路で一次試験を受け、旭川で身体検査などの二次試験を受けた。根室から単身旭川駅に降り立った時、「師範学校ってどこにあるんだろう?」となり、駅で地図を購入しそれを頼りになんとか辿り着くことが出来た。
1936年4月に旭川師範学校に入学し、さてどの部活に入ろうかと考えた。実家で馬を飼っていたのでまずは乗馬部に入った。次に「書道と美術の心得があれば教師になった時に役立つだろう」と思い、書道部と美術部にも入った。3つの部を掛け持ちしながらの新生活が始まった。
乗馬部では第七師団の軍馬を借りているのだが、馬を返す時に蹄を綺麗に掃除しなくてはならなかった。「これは大変だ」となり乗馬部を辞めた。書道部もあまり面白く感じられなかった。あちこち首を突っ込んだが、最終的には美術部一本に絞った。
美術部の顧問・熊田満佐吾先生と過ごす時間が増え、その一挙手一投足から多大な影響を受けることになる。熊田先生はあまり口数の多い方ではなく、指導する時も「ああしろ、こうしろ」と言うタイプでなかった。生徒の個性を見極めてわずかな言葉で的確に指導なさっていた。
ある時、熊田先生が私の描いている絵を見て「松本の緑は綺麗だね」と仰った。それまで絵を描いて褒められた事など一度も無いものだからすっかり嬉しくなってしまった。「そうか、俺は色彩感覚が良いんだな」なんて思ったものだ。熊田先生の指導というのはそんな風に生徒を褒めて自信を持たせて伸ばしていくというものだった。
私は熊田先生が絵を描かれる様子を見ながら自力でタッチや色使いを学んでいった。石膏デッサン、水彩、油彩…自身の生活を見つめ直し、より良く生きていく事をテーマとして真剣に描く事を学んだ。日常の中にある喜びや悲しみ、現実に立ち向かっていく気概などを強く意識して描いた。
また、熊田先生はよく「学生はとにかく勉強しなくては駄目だ」と仰っていた。「どんなに疲れていても忙しくてもたくさん本を読み学べ。いかに生きるべきかを教えてくれる本や歴史の本などを読むんだ」と…読書とは、知識を広げると同時に自分の生き方を見定めていく事であるのだと、非常に大事なことなんだと私達に教えてくれた。先生のその言葉に影響されて島木健作の『生活の探求』や夏目漱石の『坊ちゃん』、島崎藤村の『夜明け前』等々読んだ。
同じ美術部の菱谷良一君は非常に読書家でたくさん本を読んでおり、その質・量に圧倒された。日曜日には旭川市内にある彼の家にお邪魔して本を読んだ。菱谷君のお母様はいつも笑顔で手料理をふるまって下さった。本当にありがたい事だった。彼の家に通っては家庭的な温もりを得て、また寄宿舎に帰っていった。
日曜日には菱谷君宅だけでなく熊田先生のお宅もよく訪ねた。レコードを聴かせてもらいながらいつの間にか眠ってしまい、目覚めた時に熊田先生に「松本はよく寝るね」と笑われた事もあった。そういった記憶が元になり後に『レコードコンサート』(1940年/油彩・F30号)を描くに至る。
当時の寄宿舎生活では生徒の映画館への出入りは禁止されていた。しかし熊田先生の「こんな良い映画が来ている」との感想や、熱烈な映画ファンである菱谷君が先生と楽しげに映画の話をしているのを見て、自分もどうしても観てみたくなった。そこで変装しコッソリ映画館に入ったところ、私のすぐ後ろの席になんと熊田先生がいらした。「しまった」と思ったが、熊田先生はニコニコしながら形ばかりの注意をされるだけで、私を叱責されることは無かった。これが他の教諭であったらどうなっていたことか、おそらく厳しく咎められていたのではないだろうか。このように熊田先生はいかなる時も生徒の感性を尊重して下さる方だった。
1940年、5年生の二学期も終わる頃、秋の文化祭で作成した紙芝居を持って日高新冠村・元神部小学校を訪ねた。元神部小には一級上の山下懋(やました・つとむ)先輩が赴任されていた。山下先輩は美術部で培った力を発揮して紙芝居の創作に励まれ、教育の中に盛んに取り入れられていた。私も持ち込んだ紙芝居を子供たちの前で実演した。紙芝居を見る子供達のキラキラした眼、山下先輩の教師としての生き方に感動を覚えた。
一足先に教師となられた先輩の姿に学び、また来春の赴任に向けて中折帽子やオーバーなども新調して、私はまさに希望溢れる青春の只中にいた。自分の行く手に暗雲が待ち受けていることなど知る由も無かった。
1941年1月10日、冬休みを終えて学校へ向かった。途中、富良野駅で同級生の鏡栄(かがみ・さかえ)君のお宅に寄った。そこで鏡君が「五郎ちゃん、大変な事が起きたぞ」と言う。聞けば今朝、熊田先生が特高に検挙されたというのだ。寝耳に水の出来事で本当に驚いた。
学校に着いてみると生徒達の間には既に熊田先生検挙の報が伝わっており、彼らは皆動揺し混乱していた。校内には異様な空気が漂っていた。旭川師範は国策遂行に積極的に協力していた、その学校の教員からまさか思想犯が出ようとはと、衝撃が走ったのだ。
登校してきた美術部員や部員と同室の者、交流のあった者など、多くの生徒が次々に学校側から特高まがいの尋問を受けた。私も美術部部長として、熊田先生との関係、部の活動内容などをありのまま話した。うしろめたい事など何も無く、実態を知ってもらえばあらぬ疑いも晴れるだろうと思っていた。
しかし学校は私達に厳しい処分を下した。私と菱谷良一君、小松厚君、米沢仁郎君、佐藤瀧次君は留年。鏡栄君はすでに富良野小学校への赴任が決定していたというのに放校処分となってしまった。鏡君のお母様が「松本さん、なんとかならんものでしょうか」と仰るのだが、私にはどうする事も出来なかった。己の無力を痛感するばかりだった。
学校は早々に熊田先生を共産主義者と決めつけていたようだ。先生の指導を受けていた私達も主義者の子分として見られ、その思想を矯正するとして、留年となった5名とその保護者を神社に参拝させ“お祓い”を受けさせた。目の前で太鼓をドンドンと叩いて「これで誤った思想が浄化された」と言うのだ。そんな理屈に合わぬ儀式にも神妙に頭を下げるしかなかった。
昭和16年卒業生の卒業式は3月15日だったが、留年の私達5人は式の3日前に自宅に帰省させられた。失意のまま列車に乗り、親兄弟に「すみません」と言うのが精一杯だった。再び5年生をやり直さねばならない事に本当に気が滅入ったが、4人の友と「もう一年耐え忍んで頑張ろう」と約束し新学期を迎えた。
1941年4月、新卒で新任の青年教師・菅季治(かん・すえはる)先生との出会いがあった。菅先生は疎外されがちな私達を差別することなく平等に接して下さった。ある日の日曜、留年の5人で菅先生の下宿を訪問した事があった。部屋には山のように本が積まれており、その蔵書量にみな驚いた。菅先生は私達を快く招き入れて下さり、私達に多くのアドバイスを下さった。学校から受ける抑圧のもと窒息しそうな日々を送る私達にとって菅先生との日々は心の支えでもあった。
肩身の狭い留年生活にも次第に慣れ、将来への希望が芽生え始めた矢先の1941年9月20日。それは悪夢の朝だった。早朝5時に起床し寄宿舎のカーテンを開け外を見ると、何やら見慣れぬオーバー姿の男達が目に入った。6時前、玄関の錠を開けると、突然5~6人がドヤドヤ押し入ってきた。その内の一人が「松本五郎というのはいるか」と言う。「私ですが」と答えると「我々は警察の者だ、聞きたい事があるので署まで来てもらいたい」と言ってきた。
彼らは私の部屋の本棚や机の引き出しを漁り、本や日記、手帳や手紙など一切合切を持っていってしまった。随分おおげさな事をするものだと思ったが、事情がわかればすぐ返却されるだろうと、その時は軽く考えていた。同室の生徒達が不安げに見つめる中、命ぜられるまま洗面用具を持って寄宿舎を出た。
警察署に着いたら事務室で事情聴取を受けるのだろうと思っていたが、入れられたのはまさかの留置場だった。裸電球の薄暗い室内、片隅に便器が置いてあるだけの陰気な空間で、あまりの事に打ちのめされていた。
留置場での食事は嫌な臭いのする飯とタクワン。誰が使ったか知れない布団は湿気を含んでとにかく不衛生だった。布団にはシラミが大量に湧いており、それが私のシャツに移って痒さと気持ち悪さとでひどい苦痛を味わった。
ある時、菱谷君のお母様からアンパンの差し入れがあった。一度に食べてしまうのが惜しくて半分を枕元にしまって寝ついたのだが、夜中、ネズミがそれを食い荒らしてしまった。自分の置かれた環境の酷さに愕然としたものだ。
そんな環境に二ヶ月もほったらかしにされ鬱々とした思いでいたところ、ようやく取り調べが始まるとの事で呼び出しがかかった。事情を話しさえすればすぐに釈放されるものと思っていたが、現実は違った。担当の高杉警部補、これは菱谷君の担当でもあった特高なのだが、彼の放った「あんなチンピラ落とすのは朝飯前だよ」なる物言いは私にはひどくショックだった。
十畳ほどの取調室の中央には丸いテーブルがあり、その向かいに太い黒縁眼鏡をかけた厳つい顔の高杉警部補が座った。部屋の扉の前には巡査が一人あぐらを組んで座っていた。高杉による尋問は「自分は熊田や菱谷も調べているからおよその事は分かっている。正直に話せば良いがごまかせば酷い目に遭うと思っておれ」との一声で始まった。
取り調べは「松本五郎は共産主義者である」という結論ありきで進んでいった。私が「自分は共産主義を信奉していないし啓蒙活動も行っていません」といくら言っても高杉は「嘘をつくな、ごまかすな」と怒鳴ってくる。鬼の形相で「貴様は警察をなめる気か」と凄んでくるのだ。今にも殴られそうな気配に私は恐怖した。
留置場生活で心身を疲弊させたところへ恫喝をくわえ言いなりにさせるというのは本当に卑怯なやり口と思う。追い詰められた私は高杉の脅迫に屈し、調書に拇印を押してしまった。悔やんでも悔やみ切れない事だ。
共産主義者に仕立て上げられたその翌日からコミンテルンや共産主義の資料を読ませられ、それを作文に書けと高杉に命令された。付け焼刃の知識でもって作文を書き、少しでも高杉の意に沿わぬところがあると、彼は「菱谷はもっと詳しく書いているぞ、貴様は知らぬ存ぜぬで通す気か。これこれこういった本を見て書け、何度でも書き直しをさせるぞ」と言ってきた。
まるで高杉の操り人形のようになり、“即席の主義者”となって、私は偽りの供述書を書かされてしまった。高杉は私と菱谷君が交わしたという嘘っぱちの手紙すら捏造した。こんなインチキな取り調べがあるだろうか。特高の理不尽な仕打ちには今でも怒りがこみ上げる。
1941年12月の終わり頃、未決囚として旭川刑務所に収監された。事務室で「着ている物を全部脱いでこれに着替えなさい」と言われ、青衣の囚人服一式を渡された。観念して学生服を脱ぎ、青衣を身につけ、ついに私は囚人となった。
青衣の襟には「43番」と墨書きされた布が縫い付けられていた。刑務官から「君はこれから名前でなく番号で呼ばれる、この43番という番号を覚えておきなさい」と言われた。独房は一坪半の狭い部屋、一枚の畳の上に青い布団が置かれており、壁には60センチ四方の小窓があった。
真冬の旭川は零下30度以下まで気温が下がる。コンクリートの独房は極限まで冷え込み、私は凍死を免れるため必死に手足、顔を摩擦したり跳躍運動をしたりした。体を温める為の運動に疲れ果て、薄い掛布団にミノムシのようにくるまって眠りにつく。当然、熟睡は出来ず時折目が覚める。
来る日も来る日も極寒地獄である。両手足、鼻、頬、耳と、末端部分は凍傷で赤黒くなった。看守に頼んで軟膏を貰い、崩れるのを予防した。ひたすら春の来るのを待った。
待ち遠しかったのは入浴の時間だ。菱谷君や熊田先生と風呂場への廊下ですれ違う事がある。囚人同士の私語は厳禁、だが互いを見つめ、笑い合うだけで不思議と元気が湧いてきた。
浴槽の湯は長居を防止する為かやたらと熱くなっていた。そんな熱い湯の中で、たまに菱谷君と一緒になった時は本当に嬉しかった。近寄って手を握り合い、足を突っつき合う。無言のランデブーだ。短い入浴時間だったが極寒地獄をしばし忘れる事が出来、友との触れ合いも果たせる至福の時だった。
獄中には読書の自由も創作の自由もない。一切の文化的活動が制限された環境だ。しかし私は「表現したい、描きたい」という欲求を抑える事が出来なかった。歯磨きの袋やチリ紙の袋、請願作業で出る様々な紙類をこっそり集め、飯粒を糊代わりにして作った作品がこれだ。
『富士山と三保の松原』(ちぎり絵)
冬から夏へと季節が移り、独房内は極寒地獄から灼熱地獄へと変わった。7月半ばともなると空気のよどんだ房内は30度にまで温度が上がり、素っ裸になっても汗が噴き出す有り様だった。
やりきれない暑さの中、中庭を散歩運動する囚人達の中に菱谷君を探す。格子の隙間から思いきり手を振るとそれに気づいた彼がひときわ大きく手を振り、歩く。互いに「元気だぞ」と伝え合い、心の安らぎを得ていた。
一年にも及ぶ旭川刑務所での未決囚生活だったが、1942年12月26日、ついに仮釈放の日を迎える。夕方、「43番松本出房」という刑務官の声を聞き、続いて「140番菱谷出房」と続いた。私の胸は早鐘のように高鳴った。看守が扉の鍵を開け、私はようやく苦しみの内に過ごした独房を後にした。
事務室で返却された学生服に着替え、洗面用具を受け取った。中標津からは父が来ていた。「迎えに来たぞ、元気か」との父の言葉に胸がいっぱいになり、「心配をかけてすみません」と言うのが精一杯だった。菱谷君のお父さんも出迎えにいらしていた。牢獄ぶくれした菱谷君の顔も安堵に満ちていた。
菱谷君のお父さんが「五郎さん、今夜はお父さんと一緒にうちに泊まっていって下さい」と言って下さった。ありがたい事に菱谷君宅で歓待を受け、銭湯では獄中の垢を流して、生きている喜びをかみしめた。銭湯から帰って菱谷君のお母さんが用意して下さった温かい料理を前にした時、感激で目が潤んでいた。
食後は「疲れているだろうから」と早々に休まされたが、菱谷君と二人布団を並べて語り合い、釈放の興奮冷めやらずでなかなか眠りにつけなかった。
私が獄中に在った1941年12月31日、親元には旭川師範から「松本五郎は出席日数が足らぬので退学に処す」との一方的な通知が届いていた。学校からすれば在校生が思想犯として検挙された事は汚点であり、早いところ関係を断ち切りたいと、そう思っての処遇だろう。こうして私の教職への道は絶たれた。
1943年9月、旭川地方裁判所で公判廷が開かれ、懲役1年3ヶ月・執行猶予3年の有罪判決を受けた。真実の追及などどこにもない裁判だった。
出獄後、23歳になっていた私は、3歳下の弟・勝美(かつみ)と共に徴兵検査を受けた。体格の良かった弟は甲種合格に、私は第一乙種となった。両親は内心はどうあれ弟の甲種合格を表向き喜ばねばならなかった。しかし末っ子・昇(のぼる)が少年兵に志願した時はそれを止めていた。
1944年1月に私が海軍補充兵として召集された時、見送りは父と母のみだった。その頃すでに国内には敗戦を予期する暗い空気が漂っており、出征兵士の見送りはどこもひっそりしたものだった。
視力の良かった私は横須賀潜水艦基地隊・館山海軍砲術学校で対空射撃の訓練を受けた。千葉の海ではボート漕ぎや水泳の訓練などをした。潜水艦で海中生活をしているとどうにも体が弱ってくる、陸上生活とはやはり勝手が違うのだ。
海兵隊はとにかく気性が荒かった。体を鍛えるのだと言ってひたすら廊下の雑巾がけをさせられたり些細な事で精神注入棒で尻を叩かれたりするのだ。一人が不祥事を起こせば連帯責任で隊の全員が殴られた。反抗すれば営倉行きだ、誰もが必死に耐え忍んだ。
私の兵籍には生活図画事件での“前歴”が付いており、常に憲兵の見張りがあった。憲兵から直接現状報告させられる事もあれば上官が聞き取りを受ける事もあった。私の場合は直属の上官が理解ある人物であり、全国の師範学校卒の兵士達が同情や理解を示してくれた事が救いとなった。「常識が非常識」であったあの時代だ、同僚はみな私の前歴が濡れ衣であると察してくれていたのだろう。
訓練ののち、私は対戦闘機用の射手として戦艦長門に乗艦した。レイテ沖で被弾しボロボロになった長門は鉄板で補修され横須賀港に停泊していた。
1945年3月10日の東京大空襲の夜、横須賀の上空を東京に向けてB29の大編隊が飛ぶのを見た。私は長門の高射砲台から狙撃を試みたが、高度1万メートルを飛ぶB29にはついに一発も当たる事はなかった。船上から真っ赤に燃える東京の空をどうする事も出来ぬまま茫然と見ていた。
1945年5月、長門を降りて本土防衛の任につく事になり、当時一等兵曹だった私は美幌の海軍航空隊へ転勤した。しかし現地へ行ってみればそこはベニヤ板で作られた飛行機模型があるだけで砲台すら無い有り様だった。大きな丘をくり抜いて防空壕を掘る日々だった。
そして終戦の8月15日、「重大発表がある」との事で、みなで玉音放送を聴いた。戦争が終わったというのに素直に喜ぶ者が少なく、デマもしくは謀略ではないかと騒ぐ始末だった。
召集解除後にはもちろん階級もなくなる。同時に規律も道徳も吹き飛んだのか、兵舎の備蓄庫から軍事物資を盗み出す者が相次いだ。特に編み上げ靴などは闇市で高く売れるのか多く盗難に遭っていた。
私は帰りの汽車で二つ持っていた荷物の内の一つを元部下に預けて用足しに行ったところ、なんと彼はその荷物を持ち逃げしてしまっていた。貧すれば鈍する、誰もが心荒んで泥棒になった時代だった。
私は生きて中標津の両親のもとへ帰ったが、弟・勝美は沖縄戦で21歳の若さで戦死してしまった。昭和18年の徴兵検査で甲種合格となった仲間も全員戦死した。
戦争とは、軍隊とは、治安維持法とは一体なんだったのか。そんなものに青春と生命とを奪われた若者達を思うにつれ私はひどく虚しくなる。
1947年に小松厚君の妹・ミドリさんと結婚し、中標津町西竹地区に戦後開拓民として入植した。西竹地区は千島からの引き揚げ戦災者の世帯が多く住み、児童の数も多かったが、僻地ゆえに教育施設がひとつも無い。妻は結婚前は教員をしており私は師範学校で学んでいたという事で、地域の人々に乞われ夫婦で学校を開く事になった。黒板や机や椅子を手作りし、教科書やチョークは計根別小学校から無償で分けてもらい、寺子屋式の教育に取り組んだ。小学校1年から中学3年まで30名ほどの生徒が集まった。
当初は冬季間だけという約束で始めた学校であったが、生徒や保護者の期待に応える形で学校は通年のものとなっていく。1949年12月、私は旭川師範学校へと出向き、交渉の末に卒業を追認された。ようやく教諭の免許状を手にしたのだ。
夫婦で始めた寺子屋式の学校も1949年4月に正式認可され、計根別小学校東西竹分校となった。分校主任・松本五郎、教諭・松本ミドリが道教委から発令を受け着任した。
東西竹分校から西竹小中学校、十勝に移ってからは中足寄小中学校、豊頃町統内小学校、下音更小学校と歴任し、定年退職を迎えた。
戦争が終わり新しい時代が始まり、文化は次々と復活していった。平和憲法が発布され、人道的な政治や教育が甦った。生活図画事件によって一度は教職を諦めた私だが、不思議な巡り合わせによって教師となり改めて教育の重みを痛感した。人間社会の平和というのはすべて教育から始まるのだ。子供の時から自由と平和の大切さを教えていかなくてはならない。
教育とは立派な備品があれば出来るというものではない。教師の人間性に拠るところがとても大きい。私の教員人生において最も輝かしい思い出、それは子供達と共に苦労して学校を作り上げていったあの日々だ。自身の過去、図画事件にまつわる事を話すのを私は長らく避けてきた。しかし教え子達が「のちの世代の為にも是非証言をして下さい」と背を押してくれた。彼らの思いに応える為、若い人達があのような理不尽な弾圧に遭う事が二度と無いよう、これからも証言活動に励みたい。平和への願いを胸にキャンバスに向かい続けたい。