ギャラリー北のモンパルナス

ギャラリー北のモンパルナス

札幌市西区二十四軒4条3丁目3-16 アートヒル琴似 102
営業日:火曜~土曜
定休日:日曜・月曜・祝日
営業時間:11時~18時
TEL:011-302-3993
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共催する展覧会のお知らせです。

 

「松本五郎展 ―自由な心を求めて―」

2021年8月1日(日)~8月31日(火)

 

 

 

 

会場:福原記念美術館

河東郡鹿追町泉町1丁目21番地

TEL:0156-66-1010

 

開館時間:9時半~17時(入館は16時半まで)

休館日:月曜日

入館料:一般/600円  高校生/300円  小・中学生/200円

 

 

2019年11月~12月に当ギャラリーにて「松本五郎・菱谷良一 無二の親友展」を開催された音更の画家・松本五郎さんが、2020年10月24日に99歳でご逝去されました。松本さんは1920年鳥取県生まれ、1936年に旭川師範学校に入学し美術部に所属されました。1941年に起きた思想弾圧・生活図画事件では、菱谷良一さんを始めとする4人の同級生と共に検挙され、旭川刑務所に収監されて一年三ヶ月に及ぶ獄中生活を送ります。

この展覧会では、松本さんが獄中で看守の目を盗んで秘かに制作したちぎり絵「三保の松原」(1942年)を始め、戦前に描かれた油彩で唯一現存する「自画像」(1940年)等、26点を展示致します。

 

この度、新型コロナウイルスの流行に伴いまして、3月3日(火)より開催予定の『第8回 わが心の風景画展』を中止しギャラリーを一時休業とさせて頂きます。

何卒よろしくお願い致します。

 

◆松本五郎さん

画家。1920年12月4日生まれ。鳥取県出身。

旧・旭川師範学校(現・北海道教育大学旭川校)美術部員。

1941年9月20日、治安維持法違反の罪で検挙され、1年3ヶ月もの間旭川刑務所に投獄される。

生活図画事件の被害者の一人。

音更町在住。

 

 

 

私は大正9年、鳥取砂丘近くの湖山村に生まれた。父は松本與市(まつもと・よいち)、母はスエ。両親兄弟に可愛がられ叱られることも無くのびのびと育った。砂丘は私の遊び場だった。

私が小学校に入ってすぐ、4月の下旬に、父が「北海道に行きたい」と言い出した。北海道拓殖計画(第2期)の話を聞き、土地を開けば自分のものになるとの謳い文句に希望を抱いたのだ。そんな訳で家財道具を処分して鳥取から10日かけて北海道の根室・厚床に入った。厚床から目的地の中標津までは汽車が無いので馬の牽くトロッコで移動した。着いた所は楢の大木が生い茂る原野だった。

開拓民としての生活は充実したものだったが驚く事も多かった。ある時、私と兄と祖父とで森へ釣りに行った事があった。ふと見ると木の上に子熊が2頭いる。続いて現れた母熊。それを追い払おうと祖父は杖で木の幹をバンバンと叩いたのだが、これが良くなかった。母熊は怒ってしまい、兄が熊撃ちを呼びに走ってなんとか事無きを得た。

 

中標津の特別教授場という小さな学校に通い、そこを卒業してからは高等小学校に行きたいと思ったのだが、当時その地域にはまだ高等小学校が無かった。私は親元を離れて鳥取へ戻り、伯母の家から湖山尋常高等小学校に通った。この学校は大正デモクラシーを体現したかのような学校だった。校訓は「自治」。学芸会の脚本選びもマラソン大会もすべて子供らが企画運営し先生方はそのサポートに回っていた。学校は子供の自主性を重んじてくれたのだ。そのような風土の土地柄だったのだろう、地域ぐるみで学習活動に励んでいた。

私は少年時代に生まれ故郷で自由な空気を謳歌した。幼い頃に培ったその精神は後に私を襲う軍国主義の荒波にも消えることは無かった。

 

高等小学校を卒業し、再び北海道へ渡った。我が家の経済事情から両親に師範学校への進学を勧められ、受験を決めた。当時、北海道には札幌・函館・旭川の3ヶ所に師範学校があった。釧路で一次試験を受け、旭川で身体検査などの二次試験を受けた。根室から単身旭川駅に降り立った時、「師範学校ってどこにあるんだろう?」となり、駅で地図を購入しそれを頼りになんとか辿り着くことが出来た。

 

1936年4月に旭川師範学校に入学し、さてどの部活に入ろうかと考えた。実家で馬を飼っていたのでまずは乗馬部に入った。次に「書道と美術の心得があれば教師になった時に役立つだろう」と思い、書道部と美術部にも入った。3つの部を掛け持ちしながらの新生活が始まった。

乗馬部では第七師団の軍馬を借りているのだが、馬を返す時に蹄を綺麗に掃除しなくてはならなかった。「これは大変だ」となり乗馬部を辞めた。書道部もあまり面白く感じられなかった。あちこち首を突っ込んだが、最終的には美術部一本に絞った。

 

美術部の顧問・熊田満佐吾先生と過ごす時間が増え、その一挙手一投足から多大な影響を受けることになる。熊田先生はあまり口数の多い方ではなく、指導する時も「ああしろ、こうしろ」と言うタイプでなかった。生徒の個性を見極めてわずかな言葉で的確に指導なさっていた。

ある時、熊田先生が私の描いている絵を見て「松本の緑は綺麗だね」と仰った。それまで絵を描いて褒められた事など一度も無いものだからすっかり嬉しくなってしまった。「そうか、俺は色彩感覚が良いんだな」なんて思ったものだ。熊田先生の指導というのはそんな風に生徒を褒めて自信を持たせて伸ばしていくというものだった。

私は熊田先生が絵を描かれる様子を見ながら自力でタッチや色使いを学んでいった。石膏デッサン、水彩、油彩…自身の生活を見つめ直し、より良く生きていく事をテーマとして真剣に描く事を学んだ。日常の中にある喜びや悲しみ、現実に立ち向かっていく気概などを強く意識して描いた。

 

また、熊田先生はよく「学生はとにかく勉強しなくては駄目だ」と仰っていた。「どんなに疲れていても忙しくてもたくさん本を読み学べ。いかに生きるべきかを教えてくれる本や歴史の本などを読むんだ」と…読書とは、知識を広げると同時に自分の生き方を見定めていく事であるのだと、非常に大事なことなんだと私達に教えてくれた。先生のその言葉に影響されて島木健作の『生活の探求』や夏目漱石の『坊ちゃん』、島崎藤村の『夜明け前』等々読んだ。

同じ美術部の菱谷良一君は非常に読書家でたくさん本を読んでおり、その質・量に圧倒された。日曜日には旭川市内にある彼の家にお邪魔して本を読んだ。菱谷君のお母様はいつも笑顔で手料理をふるまって下さった。本当にありがたい事だった。彼の家に通っては家庭的な温もりを得て、また寄宿舎に帰っていった。

日曜日には菱谷君宅だけでなく熊田先生のお宅もよく訪ねた。レコードを聴かせてもらいながらいつの間にか眠ってしまい、目覚めた時に熊田先生に「松本はよく寝るね」と笑われた事もあった。そういった記憶が元になり後に『レコードコンサート』(1940年/油彩・F30号)を描くに至る。

 

当時の寄宿舎生活では生徒の映画館への出入りは禁止されていた。しかし熊田先生の「こんな良い映画が来ている」との感想や、熱烈な映画ファンである菱谷君が先生と楽しげに映画の話をしているのを見て、自分もどうしても観てみたくなった。そこで変装しコッソリ映画館に入ったところ、私のすぐ後ろの席になんと熊田先生がいらした。「しまった」と思ったが、熊田先生はニコニコしながら形ばかりの注意をされるだけで、私を叱責されることは無かった。これが他の教諭であったらどうなっていたことか、おそらく厳しく咎められていたのではないだろうか。このように熊田先生はいかなる時も生徒の感性を尊重して下さる方だった。

 

1940年、5年生の二学期も終わる頃、秋の文化祭で作成した紙芝居を持って日高新冠村・元神部小学校を訪ねた。元神部小には一級上の山下懋(やました・つとむ)先輩が赴任されていた。山下先輩は美術部で培った力を発揮して紙芝居の創作に励まれ、教育の中に盛んに取り入れられていた。私も持ち込んだ紙芝居を子供たちの前で実演した。紙芝居を見る子供達のキラキラした眼、山下先輩の教師としての生き方に感動を覚えた。

一足先に教師となられた先輩の姿に学び、また来春の赴任に向けて中折帽子やオーバーなども新調して、私はまさに希望溢れる青春の只中にいた。自分の行く手に暗雲が待ち受けていることなど知る由も無かった。

 

1941年1月10日、冬休みを終えて学校へ向かった。途中、富良野駅で同級生の鏡栄(かがみ・さかえ)君のお宅に寄った。そこで鏡君が「五郎ちゃん、大変な事が起きたぞ」と言う。聞けば今朝、熊田先生が特高に検挙されたというのだ。寝耳に水の出来事で本当に驚いた。

学校に着いてみると生徒達の間には既に熊田先生検挙の報が伝わっており、彼らは皆動揺し混乱していた。校内には異様な空気が漂っていた。旭川師範は国策遂行に積極的に協力していた、その学校の教員からまさか思想犯が出ようとはと、衝撃が走ったのだ。

 

登校してきた美術部員や部員と同室の者、交流のあった者など、多くの生徒が次々に学校側から特高まがいの尋問を受けた。私も美術部部長として、熊田先生との関係、部の活動内容などをありのまま話した。うしろめたい事など何も無く、実態を知ってもらえばあらぬ疑いも晴れるだろうと思っていた。

しかし学校は私達に厳しい処分を下した。私と菱谷良一君、小松厚君、米沢仁郎君、佐藤瀧次君は留年。鏡栄君はすでに富良野小学校への赴任が決定していたというのに放校処分となってしまった。鏡君のお母様が「松本さん、なんとかならんものでしょうか」と仰るのだが、私にはどうする事も出来なかった。己の無力を痛感するばかりだった。

 

学校は早々に熊田先生を共産主義者と決めつけていたようだ。先生の指導を受けていた私達も主義者の子分として見られ、その思想を矯正するとして、留年となった5名とその保護者を神社に参拝させ“お祓い”を受けさせた。目の前で太鼓をドンドンと叩いて「これで誤った思想が浄化された」と言うのだ。そんな理屈に合わぬ儀式にも神妙に頭を下げるしかなかった。

昭和16年卒業生の卒業式は3月15日だったが、留年の私達5人は式の3日前に自宅に帰省させられた。失意のまま列車に乗り、親兄弟に「すみません」と言うのが精一杯だった。再び5年生をやり直さねばならない事に本当に気が滅入ったが、4人の友と「もう一年耐え忍んで頑張ろう」と約束し新学期を迎えた。

 

1941年4月、新卒で新任の青年教師・菅季治(かん・すえはる)先生との出会いがあった。菅先生は疎外されがちな私達を差別することなく平等に接して下さった。ある日の日曜、留年の5人で菅先生の下宿を訪問した事があった。部屋には山のように本が積まれており、その蔵書量にみな驚いた。菅先生は私達を快く招き入れて下さり、私達に多くのアドバイスを下さった。学校から受ける抑圧のもと窒息しそうな日々を送る私達にとって菅先生との日々は心の支えでもあった。

 

肩身の狭い留年生活にも次第に慣れ、将来への希望が芽生え始めた矢先の1941年9月20日。それは悪夢の朝だった。早朝5時に起床し寄宿舎のカーテンを開け外を見ると、何やら見慣れぬオーバー姿の男達が目に入った。6時前、玄関の錠を開けると、突然5~6人がドヤドヤ押し入ってきた。その内の一人が「松本五郎というのはいるか」と言う。「私ですが」と答えると「我々は警察の者だ、聞きたい事があるので署まで来てもらいたい」と言ってきた。

彼らは私の部屋の本棚や机の引き出しを漁り、本や日記、手帳や手紙など一切合切を持っていってしまった。随分おおげさな事をするものだと思ったが、事情がわかればすぐ返却されるだろうと、その時は軽く考えていた。同室の生徒達が不安げに見つめる中、命ぜられるまま洗面用具を持って寄宿舎を出た。

 

警察署に着いたら事務室で事情聴取を受けるのだろうと思っていたが、入れられたのはまさかの留置場だった。裸電球の薄暗い室内、片隅に便器が置いてあるだけの陰気な空間で、あまりの事に打ちのめされていた。

留置場での食事は嫌な臭いのする飯とタクワン。誰が使ったか知れない布団は湿気を含んでとにかく不衛生だった。布団にはシラミが大量に湧いており、それが私のシャツに移って痒さと気持ち悪さとでひどい苦痛を味わった。

ある時、菱谷君のお母様からアンパンの差し入れがあった。一度に食べてしまうのが惜しくて半分を枕元にしまって寝ついたのだが、夜中、ネズミがそれを食い荒らしてしまった。自分の置かれた環境の酷さに愕然としたものだ。

 

そんな環境に二ヶ月もほったらかしにされ鬱々とした思いでいたところ、ようやく取り調べが始まるとの事で呼び出しがかかった。事情を話しさえすればすぐに釈放されるものと思っていたが、現実は違った。担当の高杉警部補、これは菱谷君の担当でもあった特高なのだが、彼の放った「あんなチンピラ落とすのは朝飯前だよ」なる物言いは私にはひどくショックだった。

十畳ほどの取調室の中央には丸いテーブルがあり、その向かいに太い黒縁眼鏡をかけた厳つい顔の高杉警部補が座った。部屋の扉の前には巡査が一人あぐらを組んで座っていた。高杉による尋問は「自分は熊田や菱谷も調べているからおよその事は分かっている。正直に話せば良いがごまかせば酷い目に遭うと思っておれ」との一声で始まった。

取り調べは「松本五郎は共産主義者である」という結論ありきで進んでいった。私が「自分は共産主義を信奉していないし啓蒙活動も行っていません」といくら言っても高杉は「嘘をつくな、ごまかすな」と怒鳴ってくる。鬼の形相で「貴様は警察をなめる気か」と凄んでくるのだ。今にも殴られそうな気配に私は恐怖した。

留置場生活で心身を疲弊させたところへ恫喝をくわえ言いなりにさせるというのは本当に卑怯なやり口と思う。追い詰められた私は高杉の脅迫に屈し、調書に拇印を押してしまった。悔やんでも悔やみ切れない事だ。

 

共産主義者に仕立て上げられたその翌日からコミンテルンや共産主義の資料を読ませられ、それを作文に書けと高杉に命令された。付け焼刃の知識でもって作文を書き、少しでも高杉の意に沿わぬところがあると、彼は「菱谷はもっと詳しく書いているぞ、貴様は知らぬ存ぜぬで通す気か。これこれこういった本を見て書け、何度でも書き直しをさせるぞ」と言ってきた。

まるで高杉の操り人形のようになり、“即席の主義者”となって、私は偽りの供述書を書かされてしまった。高杉は私と菱谷君が交わしたという嘘っぱちの手紙すら捏造した。こんなインチキな取り調べがあるだろうか。特高の理不尽な仕打ちには今でも怒りがこみ上げる。

 

1941年12月の終わり頃、未決囚として旭川刑務所に収監された。事務室で「着ている物を全部脱いでこれに着替えなさい」と言われ、青衣の囚人服一式を渡された。観念して学生服を脱ぎ、青衣を身につけ、ついに私は囚人となった。

青衣の襟には「43番」と墨書きされた布が縫い付けられていた。刑務官から「君はこれから名前でなく番号で呼ばれる、この43番という番号を覚えておきなさい」と言われた。独房は一坪半の狭い部屋、一枚の畳の上に青い布団が置かれており、壁には60センチ四方の小窓があった。

真冬の旭川は零下30度以下まで気温が下がる。コンクリートの独房は極限まで冷え込み、私は凍死を免れるため必死に手足、顔を摩擦したり跳躍運動をしたりした。体を温める為の運動に疲れ果て、薄い掛布団にミノムシのようにくるまって眠りにつく。当然、熟睡は出来ず時折目が覚める。

来る日も来る日も極寒地獄である。両手足、鼻、頬、耳と、末端部分は凍傷で赤黒くなった。看守に頼んで軟膏を貰い、崩れるのを予防した。ひたすら春の来るのを待った。

 

待ち遠しかったのは入浴の時間だ。菱谷君や熊田先生と風呂場への廊下ですれ違う事がある。囚人同士の私語は厳禁、だが互いを見つめ、笑い合うだけで不思議と元気が湧いてきた。

浴槽の湯は長居を防止する為かやたらと熱くなっていた。そんな熱い湯の中で、たまに菱谷君と一緒になった時は本当に嬉しかった。近寄って手を握り合い、足を突っつき合う。無言のランデブーだ。短い入浴時間だったが極寒地獄をしばし忘れる事が出来、友との触れ合いも果たせる至福の時だった。

 

獄中には読書の自由も創作の自由もない。一切の文化的活動が制限された環境だ。しかし私は「表現したい、描きたい」という欲求を抑える事が出来なかった。歯磨きの袋やチリ紙の袋、請願作業で出る様々な紙類をこっそり集め、飯粒を糊代わりにして作った作品がこれだ。

 

 

『富士山と三保の松原』(ちぎり絵)

 

 

冬から夏へと季節が移り、独房内は極寒地獄から灼熱地獄へと変わった。7月半ばともなると空気のよどんだ房内は30度にまで温度が上がり、素っ裸になっても汗が噴き出す有り様だった。

やりきれない暑さの中、中庭を散歩運動する囚人達の中に菱谷君を探す。格子の隙間から思いきり手を振るとそれに気づいた彼がひときわ大きく手を振り、歩く。互いに「元気だぞ」と伝え合い、心の安らぎを得ていた。

 

一年にも及ぶ旭川刑務所での未決囚生活だったが、1942年12月26日、ついに仮釈放の日を迎える。夕方、「43番松本出房」という刑務官の声を聞き、続いて「140番菱谷出房」と続いた。私の胸は早鐘のように高鳴った。看守が扉の鍵を開け、私はようやく苦しみの内に過ごした独房を後にした。

事務室で返却された学生服に着替え、洗面用具を受け取った。中標津からは父が来ていた。「迎えに来たぞ、元気か」との父の言葉に胸がいっぱいになり、「心配をかけてすみません」と言うのが精一杯だった。菱谷君のお父さんも出迎えにいらしていた。牢獄ぶくれした菱谷君の顔も安堵に満ちていた。

菱谷君のお父さんが「五郎さん、今夜はお父さんと一緒にうちに泊まっていって下さい」と言って下さった。ありがたい事に菱谷君宅で歓待を受け、銭湯では獄中の垢を流して、生きている喜びをかみしめた。銭湯から帰って菱谷君のお母さんが用意して下さった温かい料理を前にした時、感激で目が潤んでいた。

食後は「疲れているだろうから」と早々に休まされたが、菱谷君と二人布団を並べて語り合い、釈放の興奮冷めやらずでなかなか眠りにつけなかった。

 

 

私が獄中に在った1941年12月31日、親元には旭川師範から「松本五郎は出席日数が足らぬので退学に処す」との一方的な通知が届いていた。学校からすれば在校生が思想犯として検挙された事は汚点であり、早いところ関係を断ち切りたいと、そう思っての処遇だろう。こうして私の教職への道は絶たれた。

1943年9月、旭川地方裁判所で公判廷が開かれ、懲役1年3ヶ月・執行猶予3年の有罪判決を受けた。真実の追及などどこにもない裁判だった。

 

出獄後、23歳になっていた私は、3歳下の弟・勝美(かつみ)と共に徴兵検査を受けた。体格の良かった弟は甲種合格に、私は第一乙種となった。両親は内心はどうあれ弟の甲種合格を表向き喜ばねばならなかった。しかし末っ子・昇(のぼる)が少年兵に志願した時はそれを止めていた。

1944年1月に私が海軍補充兵として召集された時、見送りは父と母のみだった。その頃すでに国内には敗戦を予期する暗い空気が漂っており、出征兵士の見送りはどこもひっそりしたものだった。

 

視力の良かった私は横須賀潜水艦基地隊・館山海軍砲術学校で対空射撃の訓練を受けた。千葉の海ではボート漕ぎや水泳の訓練などをした。潜水艦で海中生活をしているとどうにも体が弱ってくる、陸上生活とはやはり勝手が違うのだ。

海兵隊はとにかく気性が荒かった。体を鍛えるのだと言ってひたすら廊下の雑巾がけをさせられたり些細な事で精神注入棒で尻を叩かれたりするのだ。一人が不祥事を起こせば連帯責任で隊の全員が殴られた。反抗すれば営倉行きだ、誰もが必死に耐え忍んだ。

 

私の兵籍には生活図画事件での“前歴”が付いており、常に憲兵の見張りがあった。憲兵から直接現状報告させられる事もあれば上官が聞き取りを受ける事もあった。私の場合は直属の上官が理解ある人物であり、全国の師範学校卒の兵士達が同情や理解を示してくれた事が救いとなった。「常識が非常識」であったあの時代だ、同僚はみな私の前歴が濡れ衣であると察してくれていたのだろう。

 

訓練ののち、私は対戦闘機用の射手として戦艦長門に乗艦した。レイテ沖で被弾しボロボロになった長門は鉄板で補修され横須賀港に停泊していた。

1945年3月10日の東京大空襲の夜、横須賀の上空を東京に向けてB29の大編隊が飛ぶのを見た。私は長門の高射砲台から狙撃を試みたが、高度1万メートルを飛ぶB29にはついに一発も当たる事はなかった。船上から真っ赤に燃える東京の空をどうする事も出来ぬまま茫然と見ていた。

 

1945年5月、長門を降りて本土防衛の任につく事になり、当時一等兵曹だった私は美幌の海軍航空隊へ転勤した。しかし現地へ行ってみればそこはベニヤ板で作られた飛行機模型があるだけで砲台すら無い有り様だった。大きな丘をくり抜いて防空壕を掘る日々だった。

そして終戦の8月15日、「重大発表がある」との事で、みなで玉音放送を聴いた。戦争が終わったというのに素直に喜ぶ者が少なく、デマもしくは謀略ではないかと騒ぐ始末だった。

召集解除後にはもちろん階級もなくなる。同時に規律も道徳も吹き飛んだのか、兵舎の備蓄庫から軍事物資を盗み出す者が相次いだ。特に編み上げ靴などは闇市で高く売れるのか多く盗難に遭っていた。

私は帰りの汽車で二つ持っていた荷物の内の一つを元部下に預けて用足しに行ったところ、なんと彼はその荷物を持ち逃げしてしまっていた。貧すれば鈍する、誰もが心荒んで泥棒になった時代だった。

 

私は生きて中標津の両親のもとへ帰ったが、弟・勝美は沖縄戦で21歳の若さで戦死してしまった。昭和18年の徴兵検査で甲種合格となった仲間も全員戦死した。

戦争とは、軍隊とは、治安維持法とは一体なんだったのか。そんなものに青春と生命とを奪われた若者達を思うにつれ私はひどく虚しくなる。

 

1947年に小松厚君の妹・ミドリさんと結婚し、中標津町西竹地区に戦後開拓民として入植した。西竹地区は千島からの引き揚げ戦災者の世帯が多く住み、児童の数も多かったが、僻地ゆえに教育施設がひとつも無い。妻は結婚前は教員をしており私は師範学校で学んでいたという事で、地域の人々に乞われ夫婦で学校を開く事になった。黒板や机や椅子を手作りし、教科書やチョークは計根別小学校から無償で分けてもらい、寺子屋式の教育に取り組んだ。小学校1年から中学3年まで30名ほどの生徒が集まった。

 

当初は冬季間だけという約束で始めた学校であったが、生徒や保護者の期待に応える形で学校は通年のものとなっていく。1949年12月、私は旭川師範学校へと出向き、交渉の末に卒業を追認された。ようやく教諭の免許状を手にしたのだ。

夫婦で始めた寺子屋式の学校も1949年4月に正式認可され、計根別小学校東西竹分校となった。分校主任・松本五郎、教諭・松本ミドリが道教委から発令を受け着任した。

東西竹分校から西竹小中学校、十勝に移ってからは中足寄小中学校、豊頃町統内小学校、下音更小学校と歴任し、定年退職を迎えた。

 

戦争が終わり新しい時代が始まり、文化は次々と復活していった。平和憲法が発布され、人道的な政治や教育が甦った。生活図画事件によって一度は教職を諦めた私だが、不思議な巡り合わせによって教師となり改めて教育の重みを痛感した。人間社会の平和というのはすべて教育から始まるのだ。子供の時から自由と平和の大切さを教えていかなくてはならない。

教育とは立派な備品があれば出来るというものではない。教師の人間性に拠るところがとても大きい。私の教員人生において最も輝かしい思い出、それは子供達と共に苦労して学校を作り上げていったあの日々だ。自身の過去、図画事件にまつわる事を話すのを私は長らく避けてきた。しかし教え子達が「のちの世代の為にも是非証言をして下さい」と背を押してくれた。彼らの思いに応える為、若い人達があのような理不尽な弾圧に遭う事が二度と無いよう、これからも証言活動に励みたい。平和への願いを胸にキャンバスに向かい続けたい。

 

 

◆菱谷良一さん

画家。1921年11月14日生まれ。旭川出身。

旧・旭川師範学校(現・北海道教育大学旭川校)美術部員。

1941年9月20日、治安維持法違反の罪で検挙され、1年3ヶ月もの間旭川刑務所に投獄される。

旭川市在住。

 

 

1940年11月20日、北海道綴方教育連盟の中心的教師だった横山真(十勝・大津小)、坂本亀松(釧路・東栄小)らが治安維持法違反で検挙された。

翌1941年1月10日、横山の恩師である熊田満佐吾(旭川師範学校)や熊田の先輩である上野成之(旭川中学校)らが検挙される。弾圧は熊田の指導を受けていた旭川師範学校美術部の生徒達にも及び、1942年2月までの間に総数26名の教育関係者が検挙される事態となった。

これを生活図画事件という。

2019年10月現在、道内には事件の被害者である菱谷良一さん、松本五郎さんがご健在。お二人は共に各地の講演会で証言活動を行っている。

 

 

 

私は1921年、父・菱谷定吉(さだきち)と母・仲(なか)の間に長男として生まれた。下には弟が3人、年の離れた妹が1人いる。

絵を描く事は小学生の頃から好きだった。自分の絵が学校で貼り出されると嬉しかった。

旭川日章小学校を卒業したのち、1936年に15歳で旭川師範に入学し、小学校からの一期上の先輩のすすめもあって美術部に入った。顧問の熊田満佐吾(くまた・まさご)先生は入学試験の時に出会った色盲検査の試験官だった。入部してから「あの時の試験官が熊田先生だったのか」と思った。

増科(講座)は熊田先生の美術・歴史を取った。熊田先生は物を見る目を養う事、観察眼の大切さを教えてくれた。「現実を見つめれば世界を知る事が出来る」と先生は仰っていた。世界史を学ぶ事で日本の皇紀に疑問を持ち、きちんと批判する事も出来た。

 

絵画以外にも、映画や読書など趣味はたくさんあった。特に映画は昔も今も大好き。3、4歳の時チャップリンの『黄金狂時代』を観たのに始まって、旭川師範時代は寄宿舎をこっそり抜け出して観に行くほどだった。同期の鏡栄(かがみ・さかえ)君とは映画ファン同士よく語り合った。

熊田先生も映画がお好きで、美術部の準備室で映画について度々語り合った。熊田先生は私が校則を破って映画館に出入りしている事を咎めることはなく、楽しく談義した思い出がある。

 

読書ではロシア文学が肌に合った。ゴーリキー、ツルゲーネフ、トルストイなど色々と読んだ。岩波文庫は本の厚みで値段が決まるのだ。アルバイト代を随分本につぎ込んだ。修学旅行で行った神田神保町でも山のように本を買い込んだ。自分にとっては宝物だったが、それらの本は生活図画事件が起きた時、すべて警察に押収されてしまいとてもつらかった。

寄宿舎生活では友人達とレコードコンサートをよくした。熊田先生のお宅にレコードを聴きに行く事もあった。大のクラシック好きでベートーヴェンファンであられた熊田先生の鑑賞解説におおいに感銘を受けたものだ。

 

1941年1月10日、熊田先生が検挙されたその日は、私達5年生が三学期を迎え寄宿舎に入る日だった。朝、熊田先生検挙の報を聞き「先生がなぜ」と驚き、不安になった。しかし自分の身にまでその災難が及ぶとは、まさか思ってもいなかった。

翌日から周囲の空気は一変した。熊田先生の指導を受けていた美術部の生徒は学校中から疑いの目を向けられて、職員達から厳しい取り調べを受けた。私自身は共産党やコミンテルンとはまったく無縁の平凡な学生であったのに、気づけば周りが私を“主義者”扱いしているのだ。私達は一夜にして要注意人物となり、卒業を目前にして教練科目の点数を評価ゼロとされ、私と松本五郎君、小松厚君、米沢仁郎君、佐藤滝次君の5人は留年措置となった。鏡栄君は放校処分となってしまった。

 

下級生と一緒にもう一度5年生をやり直すことになり、毎日がつらく気の重いものとなった。留年となった5人で集まっては悔しさを吐き出し、また励まし合って日々を過ごした。

1941年4月、旭川師範に菅季治(かん・すえはる)先生が赴任してきた。菅先生との出会いは思いがけないものだった。公民の授業を担当なさっていたがあまり教科書を開くことは無く、もっぱらヨーロッパ哲学史や民主主義について話され、私は興味深く聴いた。「こんな本を読んだら良い」と多くの良書を生徒達に示してくれた。

留年の5人組で菅先生の下宿にお邪魔し自らの境遇を訴えたところ、先生は非常に同情し私達を励まして下さった。

戦後、私の妹の嫁いだ先が菅先生のお母様のご実家という、そんな不思議な縁が私達にはあった。菅先生があのような最期を遂げられたのはとても残念なことだ。

 

そして1941年9月20日、私が寄宿舎の寝床で起床の鐘を聞いていた時だ。部屋に特高の刑事が2、3人ドカドカと踏み込んできた。「菱谷はいるか」と言われたので寝ぼけまなこで「私ですが」と答えた。「これに覚えがあるだろう」と逮捕状を見せてくる。逮捕される覚えもないので「覚えがありませんが」と言った。

「お前、熊田満佐吾を知ってるか?」「はぁ、知っております」「それじゃ早く服を着て用意しろ」…その時、自分は熊田先生の証人かなにかで話を聞かれるんだろうと、そんな風に思っていた。きっと数日のことだろうと、どこか軽い気持ちで洗面用具を風呂敷に包み寄宿舎を出た。同室の生徒達が複雑な顔で私を見送っていた。

 

連れていかれたのは比布の警察署だった。その日は雨が降っていた。署に着いてすぐ格子のついた留置場へ入れられた。そこで初めて自分は罪人扱いなのかと愕然とした。留置場で一晩過ごし、翌日になって取調室へ連れていかれた。待っていた特高の高杉警部補というのが太い銀のパイプを口にくわえて私をにらみつけてきた。

高杉警部補は非常に威圧的だった。尋問の第一声は「お前は共産主義を信奉して共産主義運動をしただろう」…もう最初から決めつけで話が進んでいくのだ。私は『資本論』を読んだ事も無ければ共産党のビラを撒いた事も無い、共産主義の理論も何も知らないのだから、慌てて「違う、僕は共産主義を信奉していません」と言った。高杉は「嘘をつくな」と怒鳴るが違うものは違うのだ。「信じていません」とさらに答えたところ、高杉に頬を殴られた。特高の恫喝と暴力に少年だった私の心は委縮してしまった。

 

取調室の壁際には、自宅に置いてあった私の本がほとんど全部積み上げられていた。アルバイトをして必死で買い集めた宝のような本だ、それを見た時「あっ」と思い悔しさで胸がいっぱいになった。高杉はそれらを指して「こんな本を読んで主義者でないなどと言わせないぞ」と私を怒鳴る。

高杉は私を恫喝する反面、「正直に話せば親の所に帰してやるぞ」と甘い言葉を囁き、飴と鞭とで調書を捏造していった。私は彼に言われるがまま、調書の「共産主義を信奉し共産主義運動をしたか」の問いに「ハイ」と書かされ拇印を押すことになってしまった。

尋問は一事が万事この調子。9月20日から12月26日までそんなやり取りが延々続き、私は立派な共産主義者に仕立て上げられた。

資本論や共産主義思想に関わる本を読ませられ、特高の意に沿うような作文を書いていく。高杉は私の書いた文章を持って旭川で尋問されていた松本君のところへ行き「菱谷はこう言っているぞ、お前はどうだ」とやる。私と松本君、両方をけしかけて調書を捏造していくのだ。そうして出来た作文は私達を起訴する為の資料となっていった。

 

1941年12月末、比布の警察署から旭川刑務所へと移された。零下30度にもなる旭川の冬の夜、暖房の無い独房はまるで冷蔵庫のようでとにかく寒い。体がガタガタ震えてくる。凍える両手を擦り合わせて懸命に息を吐きかけた。

私は第19房の「140番」になった。持って生まれた名前はここでは使えない、刑務所の中では菱谷良一ではなく140番であるのだ。

独房に入ってすぐ、看守が「お前も学校の生徒か。松本も来てるぞ、元気出せや」と声をかけてくれた。松本君もここにいると知り会いたくてたまらなくなった。

社会から隔絶された正月を迎え、極寒の独房内で眠れぬ夜が続いた。摩擦したものの両足はすぐ凍傷になってしまった。旭川刑務所の通りを挟んだすぐそこに自分の家があるというのに、なぜ俺はこんな所で一人ぼっちでいるのかと心底気が滅入っていた。

 

独房に春の光が差し込む頃になると、肉体的苦痛に代わって精神的苦痛が私を襲い始めた。4月には同じく旭川刑務所に収監されていた小松君と佐藤君が一足先に出獄しており、その事がまた孤独と焦燥とに拍車をかけた。

請願作業…請願とはいうがこれはほとんど強制的なものだ、その作業で軍隊の背嚢や弾薬盒の補修をさせられていたのだが、皮を縫うのに使う針で自分の腕を刺してしまった。自暴自棄になっていたんだ。「死のうか」とすら思っていた。

 

5日に一度の入浴時に松本君と会える事、独房の窓から中庭を運動しておられる熊田先生を見る事、そういった事が刑務所の中では大きな楽しみであり心の支えとなった。会話は許されていないので、浴槽の中で松本君と顔を見合わせ無言で笑い、固い握手を交わしていた。

丸刈りの頭に編み笠を被られた熊田先生は私とすれ違いざまに「君も来ていたのか?」と驚いたように囁かれた。自分ばかりか教え子までもと心を痛められたようだ。

 

旭川刑務所の前には大成小学校があり、運動会の時には子供達の「♪出てこいニミッツ、マッカーサー」と歌う声が聞こえてきた。彼らは教育のおかげで小軍隊になっている訳だ。最近になって「一億総活躍」なんて聞くようになったが、なぜかこの言葉を聞くと当時の軍歌が思い出されてゾッとする。

 

自らの境遇もさることながら、父母弟妹がどんな思いをしていることかと、それを思うと本当につらかった。特に母の心労を思うとひどく苦痛だった。比布の警察署に菓子を差し入れてくれた母…事務所で私の姿を見つけた時にはこちらをジッと穴のあくほど見つめていた。

4月の中頃、予審廷に呼び出されて出廷してみると、そこには判事と共に母の姿があった。人の良い判事で、接見禁止のところを特別に計らってくれたのだ。私はしかし、母の顔を直視する事が出来なかった。囚人服に編み笠、手錠姿の我が子を前に母はどんな思いでいたか。ただただ惨めで悲しかった。優しい母に心配をかけ申し訳ない思いだった。

 

1942年12月26日、「来年の正月もここで迎えねばならないのか」と思っていたその日の午後4時、突然、事務の看守が「菱谷と松本…」と言う声が聞こえた。松本君と自分の名前が同時に呼ばれ、もしやの思いに胸が早鐘を打った。

私の独房のひとつ向かい、松本君の独房が開けられた。続いて私の扉が開く。看守の「今から出るから荷物をまとめておきなさい」…待ちに待った言葉だった。

洗面用具、衣服、足袋など風呂敷に包んで独房を出た。松本君と牢獄膨れした顔を見合わせて笑った。事務室で一年分の作業代金一円を受け取り玄関に飛び出した。待合室に立っていた数人の人影、その中から松本君のお父さんが飛んで来た。「五郎は来ましたか?」「今すぐ来ますよ」そして入り口に立っていた父が私に声をかけてきた、「履物はいいのか、長靴を持ってきたぞ!」「父さんすみません」…私と父、松本君と松本君のお父さんの4人で、旭川刑務所のすぐ近くにある私の自宅へと向かった。

 

私が入院していると言い聞かされていた妹が「お兄さんが帰ってきたよ」と玄関で声を上げ、台所から母が飛んで来た。泣くまいと思っていたが母の姿を見た瞬間涙が溢れ出た。母は「よく帰ってきた、よく帰ってきた」と私を抱きしめ背をさすってくれた。

松本君親子と私達父子とで銭湯へ行き、帰ってからは皆で食卓を囲んだ。松本君と布団を並べて手を握り合い、語らいながら眠りについた。

翌朝、居間のラジオから流れるモーツァルトを聞いた時は、まるで心にカンフル剤を貰ったかのように感じた。

 

 

 

 

出獄後の1943年2月11日、その日は紀元節だった。特高に散々「お前はアカだ」と痛めつけられた記憶がよみがえり、無性に腹立たしくなった。「アカと呼びたくば呼べ」、そんな怒りと反骨の一念で、妹の赤い帽子をかぶって描き上げた自画像がこれだ。

その年の11月に懲役1年6ヶ月・執行猶予3年の判決が出た。熊田先生と上野成之先生、本間勝四郎先輩は実刑となってしまった。戦後、治安維持法は撤廃されたが、前科者の非国民に仕立て上げられた事への怒りは消えることは無い。

 

旭川師範を退学処分とされ、教職への道は潰えた。私は父の勤めていた旭川ガスに就職した。

1944年2月に召集され、陸軍に補充兵として入った。配属先は帯広の飛行師団司令部の当番兵、肩書は暗号手だ。後方の部隊で伝言は滅多に無く雑務が多かった。帯広市内に空襲があった時は警備に出向いた。

1945年8月15日、玉音放送を飛行場で聞いた。「良かった! 戦争が終わったんだ」と心から嬉しく思った。新しい時代が始まるんだと感じていた。私の人生において「生きている」と実感したのはこの8月15日と旭川刑務所を出所した時だ。

将校の中には軍事物資をトラックに積んで持ち逃げした者もいた。礼節もなにもあったものではない、神国日本の神兵が一瞬にして泥棒に変わるその様につくづく嫌気が差した。軍の残務整理を済ませ、9月末には帰宅した。

 

戦後、旭川ガスに復職し、そのまま定年まで勤め上げた。両親は晩年私が引き取り同居した。自宅2階のアトリエで私が絵を描いているところへ母が夏ミカンに砂糖をふったのを持ってきてくれた事を今も覚えている。

熊田先生は出獄後教壇に復帰され、大阪の中学校で熱心な教育を展開された。先生がお亡くなりになる少し前、礼文島旅行へご一緒したのは忘れがたい思い出だ。

 

生活図画事件の事は長いこと人には話さずに来た。しかし昨今、治安維持法の影を色濃く纏う共謀罪の出現に不安を拭いきれずにいる。世の流れを見るにつけ戦前への回帰を感じないではいられない。私を獄に送り込んだ治安維持法、それとて世に出た始めは平凡に暮らす人々とは無縁のものと言われていた。だが、私は読書する学生の絵を描いた、ただそれだけで主義者扱い、投獄されてしまったのだ。あの法律は権力の意向次第でいくらでも国民を取り締まれる、そんな危険な力があった。

今の世に共謀罪が再び生活図画事件のような弾圧を生み出さないか気がかりだ。若い人には治安維持法の、そして共謀罪の恐ろしさを知って欲しい。私達のような目に遭う者が二度と無いよう、平和な時代がいつまでも続くよう願ってやまない。