作家に聴く「戦争」No.3 菱谷良一 | ギャラリー北のモンパルナス

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◆菱谷良一さん

画家。1921年11月14日生まれ。旭川出身。

旧・旭川師範学校(現・北海道教育大学旭川校)美術部員。

1941年9月20日、治安維持法違反の罪で検挙され、1年3ヶ月もの間旭川刑務所に投獄される。

旭川市在住。

 

 

1940年11月20日、北海道綴方教育連盟の中心的教師だった横山真(十勝・大津小)、坂本亀松(釧路・東栄小)らが治安維持法違反で検挙された。

翌1941年1月10日、横山の恩師である熊田満佐吾(旭川師範学校)や熊田の先輩である上野成之(旭川中学校)らが検挙される。弾圧は熊田の指導を受けていた旭川師範学校美術部の生徒達にも及び、1942年2月までの間に総数27名の教育関係者が検挙される事態となった。

これを生活図画事件という。

2019年10月現在、道内には事件の被害者である菱谷良一さん、松本五郎さんがご健在。お二人は共に各地の講演会で証言活動を行っている。

 

 

 

私は1921年、父・菱谷定吉(さだきち)と母・仲(なか)の間に長男として生まれた。下には弟が3人、年の離れた妹が1人いる。

絵を描く事は小学生の頃から好きだった。自分の絵が学校で貼り出されると嬉しかった。

旭川日章小学校を卒業したのち、1936年に15歳で旭川師範に入学し、小学校からの一期上の先輩のすすめもあって美術部に入った。顧問の熊田満佐吾(くまだ・まさご)先生は入学試験の時に出会った色盲検査の試験官だった。入部してから「あの時の試験官が熊田先生だったのか」と思った。

増科(講座)は熊田先生の美術・歴史を取った。熊田先生は物を見る目を養う事、観察眼の大切さを教えてくれた。「現実を見つめれば世界を知る事が出来る」と先生は仰っていた。世界史を学ぶ事で日本の皇紀に疑問を持ち、きちんと批判する事も出来た。

 

絵画以外にも、映画や読書など趣味はたくさんあった。特に映画は昔も今も大好き。3、4歳の時チャップリンの『黄金狂時代』を観たのに始まって、旭川師範時代は寄宿舎をこっそり抜け出して観に行くほどだった。同期の鏡栄(かがみ・さかえ)君とは映画ファン同士よく語り合った。

熊田先生も映画がお好きで、美術部の準備室で映画について度々語り合った。熊田先生は私が校則を破って映画館に出入りしている事を咎めることはなく、楽しく談義した思い出がある。

 

読書ではロシア文学が肌に合った。ゴーリキー、ツルゲーネフ、トルストイなど色々と読んだ。岩波文庫は本の厚みで値段が決まるのだ。アルバイト代を随分本につぎ込んだ。修学旅行で行った神田神保町でも山のように本を買い込んだ。自分にとっては宝物だったが、それらの本は生活図画事件が起きた時、すべて警察に押収されてしまいとてもつらかった。

寄宿舎生活では友人達とレコードコンサートをよくした。熊田先生のお宅にレコードを聴きに行く事もあった。大のクラシック好きでベートーヴェンファンであられた熊田先生の鑑賞解説におおいに感銘を受けたものだ。

 

1941年1月10日、熊田先生が検挙されたその日は、私達5年生が三学期を迎え寄宿舎に入る日だった。朝、熊田先生検挙の報を聞き「先生がなぜ」と驚き、不安になった。しかし自分の身にまでその災難が及ぶとは、まさか思ってもいなかった。

翌日から周囲の空気は一変した。熊田先生の指導を受けていた美術部の生徒は学校中から疑いの目を向けられて、職員達から厳しい取り調べを受けた。私自身は共産党やコミンテルンとはまったく無縁の平凡な学生であったのに、気づけば周りが私を“主義者”扱いしているのだ。私達は一夜にして要注意人物となり、卒業を目前にして教練科目の点数を評価ゼロとされ、私と松本五郎君、小松厚君、米沢仁郎君、佐藤滝次君の5人は留年措置となった。鏡栄君は放校処分となってしまった。

 

下級生と一緒にもう一度5年生をやり直すことになり、毎日がつらく気の重いものとなった。留年となった5人で集まっては悔しさを吐き出し、また励まし合って日々を過ごした。

1941年4月、旭川師範に菅季治(かん・すえはる)先生が赴任してきた。菅先生との出会いは思いがけないものだった。公民の授業を担当なさっていたがあまり教科書を開くことは無く、もっぱらヨーロッパ哲学史や民主主義について話され、私は興味深く聴いた。「こんな本を読んだら良い」と多くの良書を生徒達に示してくれた。

留年の5人組で菅先生の下宿にお邪魔し自らの境遇を訴えたところ、先生は非常に同情し私達を励まして下さった。

戦後、私の妹の嫁いだ先が菅先生のお母様のご実家という、そんな不思議な縁が私達にはあった。菅先生があのような最期を遂げられたのはとても残念なことだ。

 

そして1941年9月20日、私が寄宿舎の寝床で起床の鐘を聞いていた時だ。部屋に特高の刑事が2、3人ドカドカと踏み込んできた。「菱谷はいるか」と言われたので寝ぼけまなこで「私ですが」と答えた。「これに覚えがあるだろう」と逮捕状を見せてくる。逮捕される覚えもないので「覚えがありませんが」と言った。

「お前、熊田満佐吾を知ってるか?」「はぁ、知っております」「それじゃ早く服を着て用意しろ」…その時、自分は熊田先生の証人かなにかで話を聞かれるんだろうと、そんな風に思っていた。きっと数日のことだろうと、どこか軽い気持ちで洗面用具を風呂敷に包み寄宿舎を出た。同室の生徒達が複雑な顔で私を見送っていた。

 

連れていかれたのは比布の警察署だった。その日は雨が降っていた。署に着いてすぐ格子のついた留置場へ入れられた。そこで初めて自分は罪人扱いなのかと愕然とした。留置場で一晩過ごし、翌日になって取調室へ連れていかれた。待っていた特高の高杉警部補というのが太い銀のパイプを口にくわえて私をにらみつけてきた。

高杉警部補は非常に威圧的だった。尋問の第一声は「お前は共産主義を信奉して共産主義運動をしただろう」…もう最初から決めつけで話が進んでいくのだ。私は『資本論』を読んだ事も無ければ共産党のビラを撒いた事も無い、共産主義の理論も何も知らないのだから、慌てて「違う、僕は共産主義を信奉していません」と言った。高杉は「嘘をつくな」と怒鳴るが違うものは違うのだ。「信じていません」とさらに答えたところ、高杉に頬を殴られた。特高の恫喝と暴力に少年だった私の心は委縮してしまった。

 

取調室の壁際には、自宅に置いてあった私の本がほとんど全部積み上げられていた。アルバイトをして必死で買い集めた宝のような本だ、それを見た時「あっ」と思い悔しさで胸がいっぱいになった。高杉はそれらを指して「こんな本を読んで主義者でないなどと言わせないぞ」と私を怒鳴る。

高杉は私を恫喝する反面、「正直に話せば親の所に帰してやるぞ」と甘い言葉を囁き、飴と鞭とで調書を捏造していった。私は彼に言われるがまま、調書の「共産主義を信奉し共産主義運動をしたか」の問いに「ハイ」と書かされ拇印を押すことになってしまった。

尋問は一事が万事この調子。9月20日から12月26日までそんなやり取りが延々続き、私は立派な共産主義者に仕立て上げられた。

資本論や共産主義思想に関わる本を読ませられ、特高の意に沿うような作文を書いていく。高杉は私の書いた文章を持って旭川で尋問されていた松本君のところへ行き「菱谷はこう言っているぞ、お前はどうだ」とやる。私と松本君、両方をけしかけて調書を捏造していくのだ。そうして出来た作文は私達を起訴する為の資料となっていった。

 

1941年12月末、比布の警察署から旭川刑務所へと移された。零下30度にもなる旭川の冬の夜、暖房の無い独房はまるで冷蔵庫のようでとにかく寒い。体がガタガタ震えてくる。凍える両手を擦り合わせて懸命に息を吐きかけた。

私は第19房の「140番」になった。持って生まれた名前はここでは使えない、刑務所の中では菱谷良一ではなく140番であるのだ。

独房に入ってすぐ、看守が「お前も学校の生徒か。松本も来てるぞ、元気出せや」と声をかけてくれた。松本君もここにいると知り会いたくてたまらなくなった。

社会から隔絶された正月を迎え、極寒の独房内で眠れぬ夜が続いた。摩擦したものの両足はすぐ凍傷になってしまった。旭川刑務所の通りを挟んだすぐそこに自分の家があるというのに、なぜ俺はこんな所で一人ぼっちでいるのかと心底気が滅入っていた。

 

独房に春の光が差し込む頃になると、肉体的苦痛に代わって精神的苦痛が私を襲い始めた。4月には同じく旭川刑務所に収監されていた小松君と佐藤君が一足先に出獄しており、その事がまた孤独と焦燥とに拍車をかけた。

請願作業…請願とはいうがこれはほとんど強制的なものだ、その作業で軍隊の背嚢や弾薬盒の補修をさせられていたのだが、皮を縫うのに使う針で自分の腕を刺してしまった。自暴自棄になっていたんだ。「死のうか」とすら思っていた。

 

5日に一度の入浴時に松本君と会える事、独房の窓から中庭を運動しておられる熊田先生を見る事、そういった事が刑務所の中では大きな楽しみであり心の支えとなった。会話は許されていないので、浴槽の中で松本君と顔を見合わせ無言で笑い、固い握手を交わしていた。

丸刈りの頭に編み笠を被られた熊田先生は私とすれ違いざまに「君も来ていたのか?」と驚いたように囁かれた。自分ばかりか教え子までもと心を痛められたようだ。

 

旭川刑務所の前には大成小学校があり、運動会の時には子供達の「♪出てこいニミッツ、マッカーサー」と歌う声が聞こえてきた。彼らは教育のおかげで小軍隊になっている訳だ。最近になって「一億総活躍」なんて聞くようになったが、なぜかこの言葉を聞くと当時の軍歌が思い出されてゾッとする。

 

自らの境遇もさることながら、父母弟妹がどんな思いをしていることかと、それを思うと本当につらかった。特に母の心労を思うとひどく苦痛だった。比布の警察署に菓子を差し入れてくれた母…事務所で私の姿を見つけた時にはこちらをジッと穴のあくほど見つめていた。

4月の中頃、予審廷に呼び出されて出廷してみると、そこには判事と共に母の姿があった。人の良い判事で、接見禁止のところを特別に計らってくれたのだ。私はしかし、母の顔を直視する事が出来なかった。囚人服に編み笠、手錠姿の我が子を前に母はどんな思いでいたか。ただただ惨めで悲しかった。優しい母に心配をかけ申し訳ない思いだった。

 

1942年12月26日、「来年の正月もここで迎えねばならないのか」と思っていたその日の午後4時、突然、事務の看守が「菱谷と松本…」と言う声が聞こえた。松本君と自分の名前が同時に呼ばれ、もしやの思いに胸が早鐘を打った。

私の独房のひとつ向かい、松本君の独房が開けられた。続いて私の扉が開く。看守の「今から出るから荷物をまとめておきなさい」…待ちに待った言葉だった。

洗面用具、衣服、足袋など風呂敷に包んで独房を出た。松本君と牢獄膨れした顔を見合わせて笑った。事務室で一年分の作業代金一円を受け取り玄関に飛び出した。待合室に立っていた数人の人影、その中から松本君のお父さんが飛んで来た。「五郎は来ましたか?」「今すぐ来ますよ」そして入り口に立っていた父が私に声をかけてきた、「履物はいいのか、長靴を持ってきたぞ!」「父さんすみません」…私と父、松本君と松本君のお父さんの4人で、旭川刑務所のすぐ近くにある私の自宅へと向かった。

 

私が入院していると言い聞かされていた妹が「お兄さんが帰ってきたよ」と玄関で声を上げ、台所から母が飛んで来た。泣くまいと思っていたが母の姿を見た瞬間涙が溢れ出た。母は「よく帰ってきた、よく帰ってきた」と私を抱きしめ背をさすってくれた。

松本君親子と私達父子とで銭湯へ行き、帰ってからは皆で食卓を囲んだ。松本君と布団を並べて手を握り合い、語らいながら眠りについた。

翌朝、居間のラジオから流れるモーツァルトを聞いた時は、まるで心にカンフル剤を貰ったかのように感じた。

 

 

 

 

出獄後の1943年2月11日、その日は紀元節だった。特高に散々「お前はアカだ」と痛めつけられた記憶がよみがえり、無性に腹立たしくなった。「アカと呼びたくば呼べ」、そんな怒りと反骨の一念で、妹の赤い帽子をかぶって描き上げた自画像がこれだ。

その年の11月に懲役1年6ヶ月・執行猶予3年の判決が出た。熊田先生と上野成之先生、本間勝四郎先輩は実刑となってしまった。戦後、治安維持法は撤廃されたが、前科者の非国民に仕立て上げられた事への怒りは消えることは無い。

 

旭川師範を退学処分とされ、教職への道は潰えた。私は父の勤めていた旭川ガスに就職した。

1944年2月に召集され、陸軍に補充兵として入った。配属先は帯広の飛行師団司令部の当番兵、肩書は暗号手だ。後方の部隊で伝言は滅多に無く雑務が多かった。帯広市内に空襲があった時は警備に出向いた。

1945年8月15日、玉音放送を飛行場で聞いた。「良かった! 戦争が終わったんだ」と心から嬉しく思った。新しい時代が始まるんだと感じていた。私の人生において「生きている」と実感したのはこの8月15日と旭川刑務所を出所した時だ。

将校の中には軍事物資をトラックに積んで持ち逃げした者もいた。礼節もなにもあったものではない、神国日本の神兵が一瞬にして泥棒に変わるその様につくづく嫌気が差した。軍の残務整理を済ませ、9月末には帰宅した。

 

戦後、旭川ガスに復職し、そのまま定年まで勤め上げた。両親は晩年私が引き取り同居した。自宅2階のアトリエで私が絵を描いているところへ母が夏ミカンに砂糖をふったのを持ってきてくれた事を今も覚えている。

熊田先生は出獄後教壇に復帰され、大阪の中学校で熱心な教育を展開された。先生がお亡くなりになる少し前、礼文島旅行へご一緒したのは忘れがたい思い出だ。

 

生活図画事件の事は長いこと人には話さずに来た。しかし昨今、治安維持法の影を色濃く纏う共謀罪の出現に不安を拭いきれずにいる。世の流れを見るにつけ戦前への回帰を感じないではいられない。私を獄に送り込んだ治安維持法、それとて世に出た始めは平凡に暮らす人々とは無縁のものと言われていた。だが、私は読書する学生の絵を描いた、ただそれだけで主義者扱い、投獄されてしまったのだ。あの法律は権力の意向次第でいくらでも国民を取り締まれる、そんな危険な力があった。

今の世に共謀罪が再び生活図画事件のような弾圧を生み出さないか気がかりだ。若い人には治安維持法の、そして共謀罪の恐ろしさを知って欲しい。私達のような目に遭う者が二度と無いよう、平和な時代がいつまでも続くよう願ってやまない。