早速重たいテーマでお送りします。
『死』
生きている限り、必ず付きまとう事象。
生あるモノは必ず死も迎えます。
そんな『死』ですが、皆さんは意識したことはありますか?
私は毎日あります。
今日死ぬかもしれない、明日死ぬかもしれない。
そんな思いを抱きながら日々生きています。
と言っても、決して死に対して強迫観念じみたナニカを抱えているわけではございません。
ただ、死は皆に平等でいつどこでも誰と一緒にいても迎えてしまうものは迎えてしまう不条理な運命ですら受け入れるしかない強力な事象です。
不条理な運命。
例えば、自然災害による事故
例えば、人工的被害における事故
例えば、交通事故
例えば、殺人事件
例えば、病気
例えば、未知の死
未知の死だけよく分からない?
霊とか超常現象、人間の理解に及ばない何らかの力で死を迎える可能性は私は0だと仮定しない主義なので敢えて候補に入れているだけで他意はございません。
さて、ここで驚愕の事実を発表いたします。
先に挙げた不条理な死とも取れる例のほとんどは私の欲求に通じるものがあります。
言い換えるなら自殺願望ということになるでしょうか?
先ほどの例をそれになぞらえてみると・・・
自然災害における事故で死にたい。
人工的被害における事故で死にたい。
交通事故で死にたい。
殺人事件に巻き込まれたい。
未知の死を体験したい。
省いたいくつかは、私の望まない死ということになります。
とはいえ、挙げた5つについても言いたいことはいくつかあります。
が、それについてはまた今度の機会にでもお話したいと思います。
さて、そんな『死』ですが先ほどから申し上げているようにどんな人にもぴったりとくっついてくる事象であります。
政治家であろうが、著名人であろうが、芸能人であろうが、なんであろうが関係ない。死ぬときは死にます。
それは、交通事故かもしれない、何らかの事件や事故に巻き込まれてかもしれない、病気かもしれない。それは分からない、分からないが必ずいつかは死ぬ。
一般的な幸せな死を定義するなら、それは寿命を全うした死。
いずれにしても死は不可避である。
しかし、人々は日々の忙しさにかまけて死というものについてあまり考えない。
だから唐突な死というものに必要以上に衝撃を受ける、そう私は考えています。
明日、親が死ぬかもしれないと考えながら生きるのと、何も考えずに生きるの。
実際、翌日親が死んだ時のショックの度合いにどれだけ違いがあるのか、それは手元にデータがありませんので正確なことは分かりませんが過程が違うので結果も恐らく違うのではないでしょうか?
だから何だという話ですが、そうです特に何もございません。
勿論軽薄な人間でいろと言いたいわけでも、当然ございません。
私が言いたいのは、死は常に隣り合わせにいることを意識することの大切さを説いてみたいのです。
例えば車を日常的に運転する人は細心の注意を払って日々運転をしているかもしれませんが、こう考えたことはありませんか?
第三者が意図的に交通事故を起こして巻き込まれ自分が死ぬ確率はどれくらいか?
まぁ普通は考えないでしょうが、私は考えます。
まぁ私の場合運転免許は持っていないので家族に乗せてもらっている中で考えているだけですが・・・
私はそんな思考に囚われています、今のところその思考で得することは無いという判断が勝っています。勝っていますが、だからと言って止める理由にはなりません。
そんな思考に陥ってからというもの、抜け出すことができない迷宮に取り残されているのです。
事故をニュースで見ると、私がそこにいたら死ねたのかな?と考えたりします。
事件をニュースで見ると、加害者の思考が気になって仕方ありません。
それは逆を言えば殺される動機探しになります。
こういう動機で殺す人がいるのなら、そんな人と私が出会えたらばもしかしたら・・・という思考です。
また、未知の死についてもアレコレ考えます。
『死』を意識して生きる、その極地は『どんな死に方を私は望むか』それを日々押し問答する人生・・・なのかもしれない。
ってところで締めたいと思います。
今回はあくまで自己紹介の延長でございます。
私の思考の一部、嗜好の一部をご紹介しただけでございます。
それでは、また。