「本当は無駄な文章なんてないんじゃないのか。

「美しいごみの生産者。」

 

 これから、いきなり長文で失礼する。

 

 なぜ文章を書きたいと思うのか。文章を書くことは恥ずかしいことだ。表現することは恥ずかしいことだ。それなのになぜ、自分というものを表現したいと思うのだろう。僕には積み上げてきた創作の経験なんかないし、これまで誰かに教えを希うこともなかった。僕は純粋に面白いと思うものを面白いと表現できる力が欲しいと思った。けれど、よく考えるとそれも少し違う。自分が面白いと思うものは、自分が面白いからいいのであって、他者からの相対評価が良ければいいというわけではないから。むしろ、天邪鬼の僕は、誰かに良いと評価された途端、嬉しい反面、お前なんかに全部が分かってんのかよって、興味を失うだろう。僕は文章という自己表現で人から認められたいわけではなく、人からの評価が欲しいわけでもなく、ただ確固とした自分を見つけたいだけなのだと思う。自分というものの価値を可視化したいんだと思う。だけど、何の意味もない駄文に価値なんてあるだろうか。自分の生み出すもの価値にすら、常に疑問を覚える。誰でもそうかもしれないが、無価値なものを生み出したって、ごみを世の中に増やしてるだけの気がしないか。ただでさえ、この世のごみの多さにうんざりしてるのに、自分もごみの生産者になるのかと思うと、嫌気がさす。まぁ、人間は生きてる限り必ずゴミの生産者で、普段はそこから目を背けてるだけでもある。ごみとは何か。価値とは何か。価値あるものを生み出そうという気概はあるけど、そもそもの疑問として、価値を生み出さなければ無価値なごみの生産者なのか。人間が知覚できる範囲にしか価値って存在しないのかな。周囲の環境に認められなければ、誰かに価値を見出されなければ、それは無価値と同義か。浅薄な思考に支配された世の中で、浅い欲望に身を任せて評価されたって、それは本当に価値的なのか。正直、内心はノーって言ってる。ずっとノーだと言ってる。クソみてぇな価値観の中でクソするくらいなら、自分なりに美しくもがいて反逆してぇ。例えそれが、周囲から見てゴミくずみたいなもんだとしても、立派な虹色のうんこだろ。美しいごみの生産者であればいい。人間の、相対的社会の中で、絶対的自分であることを貫くなら。

 

 

 上記に示したような駄文を残すために、久しぶりにamebaブログを始めた。今年で僕は26歳になる。正直、同い年の社会人と比べて、僕は子供っぽいと思う。勉強も資格も運動もまるでダメ。なにより、吐き出す文章は痛さを伴った、中学生の作文みたいだ。むしろ、悪い方向に成長して痛さマシマシなんじゃないか。でもそんな自分がちょっと好きなんだよ、嫌いだけど。

 

そんなわけで痛いバカだけど、よろしく。