おはようございます。
無事1回目のワクチン接種(モデルナ/武田薬品)を終えました。
左腕、肩の付け根外側の筋肉の部分に接種
注射針の痛みは、少なかった。
接種後、筋肉痛の様な痛みと、若干熱が出た。私の場合は接種(6/25 15:00前)後、半日程度で収まりました。
今も若干痛みがあります。接収部分の腫れ、皮膚の変色はなかったです。今のところですが。
また先週から7月いっぱい(2回目の接種後迄)は、休肝日を継続させます。。。
さて、久々に【にわか独りよがり考古学】です。
小学5年生の社会科見学だったと思いますが、高崎市の八幡(やはた)古墳群にある観音塚古墳を見学した記憶が蘇りました。約半世紀前の記憶です。(笑)
まさに”黄泉の国”を連想させる巨大な横穴式石室を持った古墳(6世紀末から7世紀初頭頃に築造された前方後円墳で、その石室/玄室の天井石は60トンのものがあるそうです。)で、群馬県の石舞台古墳の異名を持つとか。
先に北関東の巨大古墳は、利根川水系の古代河岸があったと思われる場所にあると、にわか独りよがりで宣言しました。
河岸があったところは、陸上⇔水上の各交通網のハブなんです。商業で栄えた場所なんですね。ですから倉/蔵の付く地名が多いのです。
前橋市の朝倉町とか、高崎市の倉賀野町とかの地名に代表されます。
八幡古墳群は、利根川の支流である碓氷川の左岸に位置しています。この地域は利根川水系で南関東に繋がります。また東山道にも繋がる交通の要所になります。
八幡(はちまんとも読む)様とは、応神天皇を祭った神社だそうです。この”やはた”という地名との相関は不明ですし、時代としては離れていますね。
群馬県太田市にある天神山古墳(古墳時代中期の5世紀前半から中期頃(第II四半世紀)の築造と推定されている。なので竪穴式石室ですね。)は、応神天皇陵の1/2の相似形であると聞いたことがあります。
時代は前後しますが、畿内では難波(河内)と飛鳥(大和)という古代勢力圏が存在したことは知られています。同じ群馬県内(上毛野地域)の初期の前方後円墳でも、その形からどちらの勢力の影響を受けたかが分かるそうです。
再び、独りよがりの持論になりますが、難波(河内)系は水上交通を基盤(瀬戸内海、朝鮮半島)とした経済圏を築いた。
一方飛鳥(大和)勢は、東山道をベースとする陸上交通で東日本に進出して経済基盤を確立した。
ですが水上交通も利用したかったので、おっかけで瀬戸内海ルートから逸れた東海の伊勢(伊勢神宮)や日本海の出雲(出雲大社)の豪族と組んだ可能性があります。
神話に繋がりますね。
以上から、太田市の天神山古墳は飛鳥(大和)勢が陸上交通(古東山道)だけを得意とする時期に、東海を経て関東に進出した難波(河内)勢の前方後円墳の影響を受けている。
一方で、高崎市の倉賀野町にある前期前方後円墳群は、大和勢の影響を受けたと思われる形状しているそうです。こちらは古東山道(鳥居峠ルート)で先行して群馬に来た勢力になります。
太田天神山古墳(ウィキペディアより) 5世紀中葉
中国の晋で永寧2年(302年)に定められた「晋尺」(骨尺とも、1尺 = 24センチメートル)を使用して、25尺(6メートル)を基準尺としたと推測される。上毛野地域ではこの晋尺の使用が多く、天神山古墳以前の築造の浅間山古墳(4世紀後半)・大鶴巻古墳(4世紀後半)・別所茶臼山古墳・朝子塚古墳においても使用が推定される。
しかし設計企画においては、浅間山古墳が佐紀陵山古墳(奈良県奈良市)の5分の4相似形であるのに対し、天神山古墳は誉田御廟山古墳(大阪府羽曳野市)の2分の1相似形であり、佐紀王権でなく河内王権と結んだ意味で天神山古墳以前の古墳とは一線を画している。
東山道は、かつては鳥居峠ルート(川原湯温泉辺りから榛名山系の西側を通ると推定)でありましたが、途中から碓氷峠ルートに変更になったと思われます。これには、榛名山の二つ岳の噴火(5世紀末から6世紀初頭に2回)が影響したと推定しています。
二つ岳の噴火で、古代の群馬県を通っていた東山道(西日本と東日本を結ぶ陸上交通のメインストリート)のバイパス工事が行われた。
次回は、高崎市西部~安中市にある後期の前方後円墳を見学したいと思っています。
注目は、梁瀬二子塚古墳:6世紀初めに造られた横穴式石室がある前方後円墳:初期の横穴式石室を持つそうです。東国で横穴式古墳が築造される様になった、はしりの古墳だそうです。
前方部は、碓氷川の上流方向(近畿の方向)を向いています。
~群馬県の横穴式石室を持つ前方後円墳の築造系列~
6世紀初頭:梁瀬二子塚古墳
大室古墳群(前二子古墳)※
前二子古墳の石室開口部 少々薀蓄を垂れます。
石室という表現は専門の方から見ると、アバウトな表現なのです。
石室は、開口部、羨道、玄門、玄室から成ります。羨道と玄室が同じ幅の場合、袖なし型の玄室と言います。玄室の幅が一方に広くなる玄室を片袖型の玄室と言い、両側に広がる玄室を両袖型の玄室と言います。
なので、前二子古墳の石室には、両袖型の玄室が在ります。
その石室入口から玄門を望む、玄門の奥が玄室
その石室内の玄門から羨道と開口部を望む
JR東日本の大人の休日倶楽部ポスターに登場するアングルです。照明の下あたりで
吉永小百合さんが写っているシーンですね。
後円部頂上から前方部を望む
向かって左側が、東側の後円部になります。
後二子古墳の後円部頂上からその前方部を望む
後二子古墳の後円部
6世紀後半:観音山古墳
6世紀末:観音塚古墳
※大室古墳群に関して、どうしても語りたいことがあります。TBC
・各古墳の主軸の延長上に在るものは何か。
定説は、古代豪族(各古墳の埋葬者)の屋敷跡
・中二子古墳、後二子古墳の前方部が、その主軸に対して非線対称な理由
一方向(赤城山側)から見て、大きく見せるため。
これが、後期の前方後円墳の前方部が発達している理由を説明できるヒント
・中二子古墳の石室が、見つからない理由
中二子古墳の後円部頂上から前方部を望む
等々で持論を展開したいです。
以上、私の勝手な思い込みで書いています。悪しからず。。。
【参照記事】