2013年7月9日

頚城バスの中屋敷バス停で下車しました。

ここから上杉謙信の居城だった春日山城跡を目指します。

バス停の側に案内板や

 

春日山城址の説明板

史跡碑などもありました。

 

案内板の道順に従っていくと、上杉謙信公の騎馬像がありました。

 

さらに進むと大手道入口の案内表示がありました。

 

大手道

 

説明板

 

さらに進むと謙信公出陣御前清水や

 

黄色の池

 

合歓の花などが目につきました。

 

 

中屋敷バス停から約20分ほど歩いたところにまた上杉謙信公の銅像が立っていました。

 

 

春日山城の説明板

 

春日山城跡の概略図

 

ここから

 

右に行けば春日山神社へ

 

左に行けば春日山城の三の丸、二の丸、本丸へと続きます。

 

まず三の丸へ

 

三の丸には屋敷がありました。

 

 

三の丸の土塁跡

 

 

三の丸には米蔵もあったようです。

 

二の丸、

 

 

本丸への道

 

先に天守台跡へ

 

 

天守台跡から頚城平野や

 

直江津の街越しに日本海も見えます。

 

そして本丸へ

 

 

 

春日山城は戦国大名上杉謙信の居城として有名です。

築城は永正年間(1504~1521)で謙信の父・長尾為景が築いた城であり、謙信没後は謙信の養子の上杉景勝の城となっていました。

景勝が会津に移封された慶長3年(1598)以降は堀氏が入ったが、堀氏は海岸沿いの福島城(現在の直江津駅近くの関川河口付近)に城を移したため、以降は廃城となりました。

春日山の一帯は上杉謙信のふるさとです。

越後守護代長尾為景の4人兄弟の末っ子として生まれ、虎千代と名付けられました。

元服して景虎になり、紛争の続く越後中部で初陣なのに見事な戦果を挙げ、兄晴影の後を継いで守護代になります。

長尾景虎が上杉謙信と名を改めるのは天文21年(1552)。

関東管領上杉憲正が、関東での戦乱に敗れて越後に逃れてきます。

憲正は関東管領家の名跡を景虎に譲り、こうして景虎は上杉謙信となったのだが、これは戦国大名としては必ずしもプラス面ばかりではなかったようです。

上杉謙信は川中島の合戦で知られていますが、川中島の合戦は5回。

越後から関東へに出陣は14回。

越後から関東への派兵は全て関東管領の役職に基づくもので、越後の大名がてんかをとろうとしてのたたかいではありませんでした。

謙信は幼いころから僧侶になるべくして育てられ、禅僧としての心を持ち続けた武将でした。

信義を重んじ、真面目で誠実な気性は、戦いに明け暮れながら天下を取ることを望まなかった珍しい武将です。

春日山城を見て戦いのための城ではないことが伝わって来るようです。

 

本丸より一段低い場所に護摩堂跡があります。

 

 

その横に毘沙門堂がありました。

 

 

毘沙門堂建設の経緯は

 

お堂に安置されている毘沙門天像

 

お花畑

 

 

 

お花畑を下ったところに

 

直江屋敷跡があります。

 

さらに下ったところに虎口があります。

 

 

空堀跡や

 

千貫門跡

 

 

再び空堀跡

 

塹壕跡などを見て

 

さらに下って屋敷跡を通って

 

 

春日山神社に到着しました。

 

 

春日山神社の扁額

 

鳥居

 

 

社号標

 

春日山神社記念館がありましたが

 

時間が早かったので閉まっていました。

 

春日山神社の由緒

 

御祭神は上杉謙信公です。

 

出発点の上杉謙信公銅像に戻ってきました。

 

軍旗の説明板もありました。

 

バス停に戻ります。

途中で見た花と

 

ミヤマカラスシジミ

 

上越市埋蔵文化財センターを通って

 

 

 

間もなく中屋敷バス停に着きます。

ここからさらに高田城を目指します。