2024年6月27日

さくらんぼ東根駅からタクシーで龍興寺沼に向かいますが、その前に与次郎稲荷神社に寄ってもらいました。

 

六田の石鳥居

この鳥居は最上で山岳信仰が隆盛した室町時代に建てられたもので、その後の衰勢で鳥居だけが残り、与次郎稲荷神社は江戸時代初期に創建されました。

参道

 

 

手水舎

 

キツネ像

 

 

拝殿

 

八幡神社と与次郎稲荷神社が合祀されているようです。

 

 

拝殿の左奥にも稲荷神社があるようでした。

 

與次郎会館

 

一体500円の願掛けのキツネでしょうか。

 

与次郎稲荷神社の由緒がかわっています。

 

常陸から秋田に国替えになり、現在の千秋公園に久保田城を築いた初代秋田藩主・佐竹義宣公の前に、一匹の白い狐が現れました。

「私はこの山に住む狐です。この旅の築城で住む場所がなくなり、みんな困っています。どうか私たちに住む場所を与えてください。そうすれば、殿のお役に立ちます。」と願い出ました。

狐を可愛そうに思った義宣公は、城北の茶園近くの土地を与え、「茶円守の与次郎」と呼んで徒歩並の待遇とした。

以来6年間、江戸へ急用が生じる度に与次郎が呼び出され、約束通り往復6日で返書を携え戻ってきました。

 

江戸までの途中、六田村(現在の東根市)の飛脚宿に間右衛門という男がいました。

この男、最近飛脚の宿泊が少ないことを不審に思っていたが、あるとき佐竹の飛脚が飛ぶような速さで通り過ぎているという噂を聞きつけた。

猟師の谷蔵にそのことを相談すると、「それはキツネに違いない、捕えれば宿はまた繁盛する」と間右衛門を唆した。

そこで2人は悪党仲間たちと謀ってキツネの好物・油揚を仕掛け罠でとらえて、キツネの肉を食べてしまいました。

 

その夜から六田村の人々に乱心する者が続出しました。

近隣の狐たちが集まって祟ったもので、一月の間に300人以上が狂い、17人が死亡し、正気のものは10人ばかりというありさまでした。

騒ぎは幕府の耳の届き、代官の杉本伊兵衛が派遣されました。

伊兵衛も現地の惨状に肝を潰したが、正気の者たちから事のあらましを聞くと、与次郎をこの地に祀ることとし、恨みを納めて立退くよう狐たちに向けて呼びかけました。

すると狐は去り、村人は酒の醒めるように回復した。

しかし間右衛門と谷蔵は10日も立たないうちに死に、子孫もやがて途絶えました。

 

事の次第を聞いた佐竹義宣は大いに無念がり、久保田城内に与次郎をまつる神社を建立した。

また江戸に往来する際は、六田で必ず与次郎が祀られた宮に参拝しました。

義宣以降の歴代藩主も往来の際、軌道から続く参道に化粧砂を敷いて必ず詣で、藩主が参拝できないときは御刀番が代参する習わしとなったそうです。

 

秋田市内の千秋公園の久保田城本丸にある与次郎稲荷神社

 

その横に初代藩主佐竹義宣、9代義和、12代義暁を祀った八幡秋田神社があります。

 

また千秋公園入り口近くの秋田県立美術館前の道路わきにはマスコットキャラクターの「与次郎」くんが立っています。

 

 

与次郎稲荷神社参拝後に龍興寺沼に向かいました。

近くにある普光寺の鐘の前で下車しました。

 

 

普光寺の鐘は山形県で二番目に古い鐘で、県の指定有形文化財です。

ちなみに一番古い鐘は出羽三山神社の鐘です。

 

地蔵堂には

 

延命地蔵尊が安置されています。

 

敷地内の様子。

 

六地蔵もありました。

隣接する畑にリンゴの実や

 

 

紅花が咲いていました。

 

 

道路を隔てた反対側に龍興寺沼があります。

公園のように整備されています。

 

 

 

大イチョウ

 

龍神を祀った社

 

龍興寺沼は東根城の堀跡です。

東根城の本丸は現在東根小学校となっています。

ここから徒歩2分ほどの場所にあります。

東根小学校正門

 

グランド、

 

校舎部分が本丸跡です。

 

東根城は当初は小田島城と称し、貞和3年(1347)に小田島長義築いたのが始まりです。

その後、応永2年(1395)に天童頼直の四男・頼高が小田島城に入り、東根を名乗りました。

戦国時代末期になると最上氏と天童氏の争いが激化し、東根氏は「天童八盾」の一翼を担っていましたが、最上氏の内部工作の末、重臣である里見原右衛門(景佐)が最上氏についたため、東根氏は分断され東根城は落城しました。

東根氏の名跡は里見景佐が継ぎ、最上氏に臣従することで1万2千石の大身として迎い入れられました。

景佐は領国経営を積極的の行い、城郭や城下町の整備、神社仏閣の勧請など多くに実績を残しています。

元和8年(1622)に最上氏のお家騒動により、最上氏は改易になり、里見氏も阿波国徳島藩蜂須賀家の預かり身となり、新たに山形藩主に就任した鳥居家の管理のもとに東根城は維持されました。

寛文元年(1661)には東根城の重要性が失われると廃城となり、後に山形藩や白河藩の代官陣屋が東根城の二の丸跡地に設けられました。

 

二の丸跡には現在愛宕神社と作城稲荷神社があります。

 

東根陣屋跡もこの近くです。

 

東根城三の丸跡には現在の養源寺があります。

 

撮りに行きませんでしたが、堀跡は龍興寺沼のほかに中沼と光専寺沼が遺構として残っています。

 

東根小学校の塀は城壁を模して造られています。

 

 

 

 

東根小学校の校庭にそびえる大ケヤキは

 

 

 

 

 

樹齢1500年以上、幹の太さ16m、直径5m、高さ28mという巨木で、国指定特別天然記念物に指定されています。

日本一のケヤキです。

 

この後養源寺、里見景佐の御霊屋などを見た後、梅ケ枝清水で昼食を摂ります。