2024年2月12日
世界らん展の東京ドームシティから湯島天神に移動しました。
夫婦坂門から参内しました。
梅が咲いていました。
天神様は菅原道真公をお祀りしていて、学問の神様と言うことで合格祈願の参拝者が拝殿の前で行列を作っていました。
本殿
合格祈願の絵馬もすごい数です。
湯島天神にも梅園があります。
2月12日なので梅は咲き始めた頃でした。
桜は満開のときが見頃ですが、梅は3分咲きの頃が見ごろと言われています。
3分咲きの頃が梅の匂いが最も香しいからだそうです。
梅の盆栽も展示されていました。
湯島天神の境内図
男坂石段鳥居
唐門
唐門扉の彫り物
道路に鳥居がありました。
境内社の笹塚稲荷神社と
戸隠神社
また泉鏡花の筆塚や
頂いた御朱印です。
梅まつりの守印が押されています。
童謡「とうりゃんせ」の歌詞
とうりゃんせ とうりゃんせ
ここはどこの細道じゃ
天神様の細道じゃ
ちっと通して下しゃんせ
この子の七つのお祝いに
お札を納に参ります。
行きはよいよい 帰りはこわい
こわいながらも
通りゃんせ 通りゃんせ
これは七五三の7歳の子を天神様に連れて行って、無事に7歳まで生きて来れたことを神様に報告し、お礼の気持ちを伝えるお参りです。
この唄の天神様は川越市の三芳野神社のことです。
僅かな時間しかなかったので、イイ映像が撮れていません。
三芳野神社は主祭神の素盞鳴尊と奇稲田姫が大宮の氷川神社から、配祀の菅原道真が京都の北野天満宮から勧請されたものではないかと言われています。
太田道灌が川越城を築城し、三芳野神社を川越の鎮守とした頃から由緒が明確になっています。
菅原道真公が祀られていることから天神様として親しまれていました
家康が江戸に入府すると川越城には重臣酒井重忠を置き、その後も堀田、松平、柳沢と言った有力大名が城主でした。
そして1963年の城拡張整備で約99000坪の規模を持つ巨大な城郭になり、この時三芳野神社は城内に取り込まれ、川越城の鎮守となりました。
これ以降は一般庶民は三芳野神社に参拝できなくなりました。
歌詞の中の「行きはよいよい 帰りはこわい こわいながらも 通りゃんせ 通りゃんせ」とはどういう意味なのでしょうか。
三芳野神社に参拝出来なくなったのですが、鎮守への信仰心から庶民は「お城の天神様」と言って遠くから遥拝していました。
その信仰心の篤い庶民の姿を見た藩主は、年に一度の大祭と七五三のお祝いの時のみに参拝を許可しました。
天神様までの順路
南大手門―>田郭門―>天神門―>三芳野神社へと続く道が天神様の細道となっています。
一般庶民を入城させるのですから、警備は厳重になり「御用のない者通しゃせぬ」と言うようにチェックが厳しかったのでしょう。
入城の際は外見の怪しいものをチェックするだけですが、退城の際は密偵などによる城内機密書類などの持ち出しはないか所持品の検査などもがあり、入城より退城の方がずっと厳しかったようです。
これが「行きはよいよい 帰りはこわい」と言う歌詞の根拠です。
子供を連れて七つのお祝いで訪れ、門を潜る度に行き先を説明し、帰りは帰りで持ち物をチェックされ、ドキドキしながら天神参りしたのではないでしょうか。
それが川越の子女の間で唄われるようになり、やがて江戸に伝わり、そして全国へ広がっていったのでしょう。
2014年1月4日に山口県防府市の防府天満宮に行ったことがあります。
参道入口の石の鳥居
扁額
楼門
随身の大臣
拝殿
菅原道真公が太宰府へ西下の途中、周防国国司である土師氏を頼り、周防の勝間の浦に寄港し、この周防の地は天皇のいらっしゃる京の都と陸続きであり、願わくばこの松崎に居を構えて『無実の知らせ』を待っていたいと願いながら、九州へ旅立たれました。
大宰府にて薨去された丁度その日、周防勝間の浦に神光が現れ、天神山に瑞雲がたなびき人々を驚かせた。
国司はじめ里人は道真公の御霊魂が光となり雲となって此の地に帰って来られたと悟り、翌年の延喜4年(904年)に道真公の御霊魂の居を松崎に建立し、「松崎の社」と号しました。
菅原道真公をお祀りした神社は全国約1万2千社あります。
有名な京都の北野天満宮の創建は天暦元年(947年)、太宰府天満宮は延喜19年(919年)です。
と言うことは防府天満宮が日本で最初に創建された天神様と言うことになります。
なので『扶桑管廟最初』の碑が防府天満宮の境内に立てられています。